N国党ウォッチ記事
以下N国党立花孝志氏動画コメント欄より引用
立花さん本当に応援しています。 自分は今、高校一年生です。 中学の頃からメディアはなんで嘘ばっかりつくんだろうと、ずっと思っていました。インターネットの普及によって多くの人が情報を手にすることができるのに、NHKの実態を知らずに多くの国民が騙されてきました。 今本当に革命の時が来てるんだなって、思います!
「メディアは嘘をついている」というフレーズがインターネットだと強烈な力を持つ。何も今に始まったことではない。
高岡蒼甫さんの発言に端を発したフジテレビ前デモなども記憶に新しい。それ以前にもインターネットが新しいメディアとなり、新聞やテレビなどのレガシーメディアは時代遅れだといった主旨の文章はネットのあちこちで見ることができた。
確かに既存メディアが嘘をついている事実はある。倫理にもとる報道も確認できたりする。権力の監視として機能していないなどメディア批判をしようと思えばそのエビデンスはいくらでも出てくる。最近だと京アニの実名報道などもその一例と言える。
あらゆるエビデンスを持ち出してメディアは嘘をついているというとなるほどそうなのかと思いそうになる。確かにメディアは嘘をつくことがあるし倫理にもとることがある。しかしなぜメディアは嘘をついているように見えるのかに立ち返って考えるべきだとも言える。
こういったメディア批判の根拠となっているのは「メディアは客観的であるべきだ」といった価値観である。
しかし原理的に客観的なメディアなど存在しえない。これは大学の時にマスメディア論を履修していた時に教授が言っていたことだけれど
「報道において客観は主観の反対語ではない。客観とは主観からどれだけ距離を取れるかである。」と言っていた。
誰かが何かを発信する時にその言葉には必ず立場がついてくる。いわゆる政治的な右左のようにわかりやすく可視化されたそれとは違い、メディアの場合には選択がつきまとう。どちらがより客観的かという主観がはいらざるを得ない。何を報道すべきか、何を報道しないのか、どのくらい報道するのか。
アナウンサーが客観的に喋っているように見えてもスタジオの裏では選択という主観が入っている。
その作業を知らない僕達はメディアに完璧な客観性を求める。完璧な報道、完璧な倫理にてらした客観的で公平な報道をするのがメディアの当然の役割だと思い込んでしまっている。しかしそんなものははなっから存在しえない。
僕達の高すぎる基準から見ればすべてのメディアは嘘をついているように見える。そうした構造に無自覚でいると、その構造を政治利用する勢力に騙されることになる。
メディアは嘘をついているという嘘をつく人々に簡単になびいてしまう。それは今般のN国党の躍進にも見て取れる。上記引用したコメントにも表れている。完璧な客観性など存在しえない。完璧な客観ではないと批判すること自体がメディア批判としてはナンセンスである。
いっぽうでなぜ僕達はインターネットが嘘をついていないように見えるのかにも言及したいと思う。
ネットで真実といった言葉ははるか昔から言われてきたが、最近は無知を表明するような言葉になった。個々の情報で見ればネットに真実は点在するが同時にフェイクも存在する。インターネットは混在のメディアだ。
インターネットはテレビや新聞よりもはるかに嘘でまみれているがそれは点在しているに過ぎない。僕達はネット上の個別の嘘については問題にすることは少ない。嘘に騙された人々の能力のなさのほうを批判しインターネット自体を否定したりはしない。嘘を嘘と見抜けない人は使うべきではないとひろゆきさんが言っていたけれど
嘘自体が問題視されることなく嘘を嘘と見抜く能力だけが問題視されるのがネットのメディア特性である。
その意味でインターネットがテレビや新聞などの既存メディアと最も違うのが僕達はネットに嘘が書かれていると自覚しているということだと言える。
既存メディアは客観的でいなければならずインターネットはその限りではないという評価軸で両者を査定すればインターネットのほうが正しいと思うのは当然だ。
その「ズレ」がメディア批判を生んでいる。そしてそれを利用する人々がいる。
しかし僕はインターネットのほうこそ注視すべきだと考えている。既存メディアは個別のメディアとして見ればインターネットの情報よりはるかに確度が高い。
新聞やテレビは原理的に客観的ではありえず、メディアとしてはワンオブゼムだ。そう考えれば上記コメントのようなピーキーな批判にはたどり着かない。たどり着かなければメディア批判する人の煽動に乗せられることもない。
それでもメディアが間違っていると考えるのであれば好きにすればいい。NHKの受信料などは改善すべきだとは思うしね。N国党のそれはデュープロセスがないのでもう支持しないけれど。
ただメディアが客観的でないという批判はメディア批判としては全くの的外れだと言える。