メロンダウト

メロンについて考えるよ

親ガチャを抽象的に考える~偶然性の終わり、リベラルユートピアの失敗~

ガチャガチャガチャガチャインターネットがいろめき立っている。親ガチャ、性別ガチャ、時代ガチャ、国ガチャなどいろいろあるけれど、これはようするにリチャード・ローティが言っていた「偶然性」の議論なのではなかろうか?
 
ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の中で「私が自由を信じているのはアメリカに生まれそのような教育を受けたという偶然にしか理由を求めることができない」という趣旨のことを書いている。リベラルという思想も欧州を中心とした共同体がベースにあり、その中で偶然出てきた思想に過ぎない。すべては偶然でしかない。偶然でしかないゆえにアイロニズムからは逃れようがない。そしてアイロニーを肯定してこそ連帯は達成されると言う。
ローティは偶有性という言葉を使い、すべての人の中に偶然が有るとし、偶然はアイロニカルなものとして発露されると書いている。偶然性とはようするに親ガチャのことである。
親ガチャという言葉はどこか皮肉めいている。どれだけ努力して成功した個人であろうとも親に恵まれただけだろという皮肉をぶつけることができる。あるいは不遇な個人がいたとしても自虐的に親に恵まれなかったと言うことができる。偶然性を念頭に置けばすべてを宿命論として回収することができてしまう。そしてそれは事実だからこそタチが悪い。親を筆頭に生まれた環境や出会う人々で人格のほとんどが形成され、幼少期に自ら選ぶことは誰にもできない。名前も学業もほとんどが親に差配されるだけの脆弱な存在が人間である。それにたいして絶望しないわけにはいかない。その絶望はアイロニーという形でしか発露しえないのである。親ガチャは事実としてそうであり、否定することができないゆえに僕達は「偶然を皮肉としてしか処理することができない」。したがって誰もがその偶然性を自覚し、他者の偶有性を認めることで、多様性が周知され、リベラル・ユートピアが完成されるというのがローティの議論でもある。いずれにしろ人生はそのほとんどが偶然そうなっただけであり、それを否定することが不可能である以上、絶望するよりもアイロニカルに生きるほうがマシだという話でもある。あるいはそうした偶有性、絶望を認めることこそが逆説的に連帯を達成する礎になると言う。
 
人生は運であるとそのまま言ったところであまり意味がない。誰にとっても人生はガチャガチャであり、それは単なる前提条件に過ぎない。生まれを皮肉るのも結構であるが、それでも連帯せざるを得ないのが社会というやつで、偶有性を持つ個人がいかにして連帯するか考えたほうがいくらか建設的なのではないだろうか。
 
しかしながら僕達の社会はそのような議論をする素地を持たないように見える。親ガチャという言葉は個人の属性や優劣の問題として処理され、再分配の議論に終始している。ローティは人々が偶有性を自覚することで連帯するようになると説いているけれど、それは理想論に過ぎなかった。僕達は誰が特権的な立場にあるのかということにしか関心がない。女性のほうがイージーモードだという性別ガチャの問題しかり、属性ごとに個々人が持つ偶有性を再分配のリソースとして規定しようとしている。誰がどれだけのリソースを持っているのかという議論ばかりしている。ローティのそれとは離れてしまった。ローティは人の人生はがんじがらめでそれを直視する限り絶望しかなく、絶望ゆえに人々は連帯できるという議論であった。絶望を肯定するために人はアイロニーを必要とすると書いているけれど、僕達の議論はどうであろう。誰の人生が希望に満ちているか、誰の人生が絶望的であるかという比較論でしか偶然性=親ガチャを捉えられていない。誰もが偶然な人生を抱えていると自覚することで連帯は達成されるというローティの目論見は失敗し、誰が希望に満ちた人生を送っているか、あるいは誰が絶望的で被害者なのかという議論へすり変わっていってしまったのだ。
 
このような言論構造になってしまった理由として考えられるのは資本階級の固定化である。資本階級が固定化され、貧困の再生産が事実として回避できない社会になり、文字通り「生まれた時から勝ち組」なる人々が出てきた。偶有性はそれ自体が個性として見なされなければ多様性を形作るものにならないけれど、もはや多様性は終わってしまい、親ガチャもとい偶然性は優劣を計るものでしかなくなってしまったのだろう。その結果優劣を計る資本主義が剥き出しになり、親ガチャという言葉が説得力を持つまでの社会になった。資本という側面だけで見れば親ガチャは厳然たる事実ではある。しかし人間には資本以外の部分があるという建前があった。個性だったり愛嬌、あるいは人格なんてのもそうかもしれない。しかし人格はコミュニケーション能力に変質し、愛嬌はサービスになり、個性は人材へと還元される後期資本主義社会にあっては、すべてのものに「値」がつくことで多様な個人が多様なまま評価されることはなくなってしまった。個性も人格も文化も能力もなにもかもが資本主義というメジャーによって評価される時代にあっては、親ガチャという言葉はもはやアイロニーでもなんでもなく「単なる事実」に過ぎないのである。
 
 
親ガチャ、もとい偶然性はかつて人々が連帯するための言葉であった。誰しもが偶然から逃れられない存在であるからこそ、連帯を必要とし、その中で多様性が周知される。そんな建付けの議論であった。しかし個人の偶有性に値が付き、比較論として査定され、恋愛すらも取引となった時代にあっては、偶有性は個人が持つ資本として認識され、再分配が求められることになった。
親ガチャという言葉は再分配を加速させるために使われる。親が誰だろうとも人間は平等に承認され、平等に価値を享受すべきだという議論が正しいとされた結果、良い親と悪い親に振り分けられ上野千鶴子式再分配へとリベラルの意味が変わってしまった。連帯のもとに多様性が達成されるという幻想は消え、ゾーニングし、再分配が正しいと言うのが今のリベラル・フェミニストなのである。
すべての生が価値並列的に評価されるようになり、多様性は消え、個人の偶有性もとい人生は決定論として認識され、たまたま良い親の元に産まれたという幸運を再分配することで最終的には生きていることそのものが無意味なものになる。したがって、だったら最初から産まれてこなければ良いという反出生主義が説得力を持つにまで至る。
 
「産まれてくることは非選択的であり人生は原理的に偶然に支配され絶望でしかない。全員が絶望的存在であり、出生などそんなものだ」
という議論は終わった。生まれてくることは希望に満ちていなければならない。人は偶然性によってとらえるものではなくなり、必然的にそうなるという「事務処理」によって産まれてこなければいけない時代なのだ。子供は希望に満ちた存在でなくてはならず、絶望的であってはならない。絶望的であってはならないとはつまり「偶然」であってはならないという意味であり、人はある程度の希望を持ちうるだろうという必然のうちにしか産まれてこなくなった。
その結果、絶望を基点とした「偶然性、アイロニー、連帯」というリベラルユートピア構想は根底から覆ることとなった。
 
個人が絶望的存在という前提を共有してこそ社会は希望に満ちていられる。一方で個人が希望に満ちた存在であるべきだという前提になると社会は絶望的になる。全員が希望に満ちた存在であるとはつまり連帯を必要としない社会であり、そのような社会になればなるほど、関係性の拡張は消え、システムによって規定されることを良しとし、偶然もとい誤配が消え、果てには多様性が単なる言葉でしかなくなっていく。
 
・・・なにか取り留めがなくなってしまった。
いずれにせよ親ガチャという言葉が持つ「事実らしさ」は近代特有の何かを含んでいると思う。それはローティが偶然性に見たそれとはまったく別の問題になっている。
科学が進歩して子供がどのような人生を送るかという予見可能性が高まれば高まるほど偶然や幻想が入り込む余地はなくなり、必然のうちにしか子供は産まれなくなるし、そのように産まれてきた子供は僕達がそうしてきたような人生にたいするアイロニーを「言うことすらできなくなる」のではないだろうか。そんな疑念すら持ってしまうのだ。

人間としての古谷経衡氏、記号論としてのインターネット

ゲンロンカフェに古谷経衡さんが登壇していたのでシラスにて拝見しました。

古谷経衡×辻田真佐憲×東浩紀「ネトウヨとJリベラルに抗って——夏のゲンロン大放談企画第3弾」 @aniotahosyu @reichsneet @hazuma #ゲンロン210907 ゲンロン完全中継チャンネル | シラス

古谷さんと言えばネトウヨだった過去を持ち、チャンネル桜など保守論壇の若手論客として活動していた印象が強い。僕も西部邁さんや中野剛志さんに先崎彰容さんなどの影響を受けているので、古谷さんのことも見かけていたのですが、正直言えばそれほど熱心には追っていなかった。「面白い人」だとは思っていたけれど・・・

いや、でも今回の放送を見てあそこまで熱い人だとは思わなかった。

ボルボ車の頑丈さを力説するくだりなんか最高だった。鬱とパニック障害の窮状、在日のキムさんを熱弁するシーンとそこから得た人生観、毒親との決別など

メディア上では保守論客としての振る舞いしか見えてこないけれど、長時間放送するシラスでは登壇者の人間性が見えてくる。そして、その「人間性の可視化」みたいなものがすべてなのではないかというのが視聴後に抱いた最大の感想であった。

 

結局、今のインターネットの最大の問題は「人間がいない(ように見えている)」ことなのだと思う。

もちろんみなそれぞれに生活があり、そこに人間はいるのだけれど、SNSを中心としたネット上ではそれがあまりにも表層化していて、人間が情報として処理されてしまっている。記号論的に消費されていくだけで、実存にまで踏み込んで人間を見せてくれるものは今やほとんどない。それを見せてくれるのがシラスなのだと思う。8時間とか放送してるのを片手間でも見ていれば人間が見えてくる。その人間史観のようなものがインターネット時代にあって逆説的にものすごく重要なものになってきている。

 

メディア上での議論は議論という枠組みの中に収められていて、その中でみなある程度のロールプレイを行っている。古谷さんであれば保守論客という役割を演じざるを得ないだろうし、リベラルであればリベラルの言葉を喋るbotとしての役割を暗に強制されてしまうのであろう。もちろんそれは番組構成という制約がある限りしょうがないことだし、パッケージを施さなければ商品として成り立たない側面がある。しかし、そうして商品として提供しようとすればするほど人間は表層化し、記号化してしまう。それを見た視聴者は誰々を保守、誰々をリベラルという記号として認識するけれど、はたしてそれが健全な議論なのだろうかと思うのだ。結局みんな同じ身体を持つ人間であり、その共通項を持ってして人間が人間として接続できる。こちら側が保守、あちら側がリベラルという枠組みで認識した場合、それは重大な錯誤に陥ってもまったく不思議ではない。そうならないためには人間の存在(実存)を無視できないレベルまで可視化するしかないのだと思う。それはリベラルが言う徳や倫理とはまったく違っていてその人を無視できないレベルにまで輪郭化することで視聴者への「戦慄」として刻まれ、保守やリベラルを超える人間としてはじめてこちら側に吸収されるのだ。

 

古谷さんは番組内で「自分は五年以内に死ぬかもしれない」と言った。もし古谷さんが亡くなるとすれば、シラスを見る前の僕であれば訃報としてしか認識できなかったかもしれないけれど、シラスで古谷さんの人生に触れた瞬間に無視できないものに変わった。人生を垣間見た瞬間にその人への認識は劇的に変わる。それはたぶん人間に本能的にプログラムされたものなのだと思う。家族が亡くなったら悲しいと思うのと同じように、他人と知人は違う存在であり、その存在の戦慄を拡張することでしか他者への想像力は開かれないのではないかと、そんなふうに思う。いわゆる構築主義、公共性を重視するリベラルのそれがよくわからないのは、人間に根差した本能に由来している部分がある。知人が死ぬのと他人が死ぬのは、どうしようもなく違うことなのだ。人はユニバーサルにものを考えるようにはできていない。もちろん誰にもその存在を知られずに亡くなる方もいて、そうした弱い人々にリーチしようとするリベラルの理念は崇高なものである。それも忘れてはならない。しかし人間はそうした理念によってのみものを感じるようにはできていない。

 

なればこそ他人を他人として切断しないような経験と、経験にもとづく認識が必要になってきて、それがゆえん公共性にも接続するのだと思う。古い言葉で言えばコモンセンスなどがそれにあたるけれど、そうした共同性の果てにリベラルが成立するのであって、一足飛びにハッシュタグで連帯できるほど人間は簡単な生き物ではない。インターネットに人間がいないというのはつまりそういうことで、パッケージ化され、商品化され、情報化されたものの内に人間は存在できなくなってしまう。そして、そういう世界に適応するSNSのキャラ戦争みたいなものも情報的にすべてが処理されていくし、だからこそそこに人間の存在が考慮されない「炎上」が起きたりもする。リベラルとキャンセルカルチャーがセットなのは、そこに人間の存在を認めていない心性と連動しているのが主たる理由なのであろう。リベラルは世界をどうデザインするのかという公共性に腐心していて、そこに人間がいるのをほとんど忘れている。僕が保守の側に親和的なのも保守の側はまだ人間の存在を忘れてはいないからだ。一部先鋭化したネトウヨが外国人にたいしてヘイトを行っていて、あれはまた逆の意味で問題ではあるのだが・・・

 

記号論として人間が消費されていくのは、「古谷さんが亡くなろうともどうでもいい世界」であり、それには明確に反対したい。人間はどうでもいいものはどうでもいいと感じるものであるけれどどうでもよくないものはちゃんとどうでもよくないと感じることができる。しかし今はどうでもいいものまでどうでもよくないものとして扱っており、どうでもいいものとどうでもよくないものの境界線があやふやになっていてどうでもいいものとどうでもよくないものを一緒くたに認識させようというふうに世界がデザインされている。人間には本来どうでもよくないことがあってその軸足によって世界を認識できるのだけど今は「軸足のない世界」になってきていて、そのような世界に適応しようとすればするほどロールプレイに巻き込まれていき、古谷さんが亡くなろうとも悲しいと感じない人間になっていく。

すべてをどうでもよくないものと考えはじめた瞬間にすべてをどうでもいいものと認識してしまう。それが人間であり、その意味で虚無主義ヒューマニズムは表裏一体なのだ。

西部邁『虚無の構造』がインターネットを語るうえでかなりの名著だった件 - メロンダウト

 

以上のような話はけっこう陳腐なインターネット観で、ずいぶん昔に言われていたことでもあるけれど、ああいうネット保守的な人間観は実のところけっこう正しかったりするのではと思うんですよね。今の状況を見ていると。

みなが記号論的に消費されることを良しとしているし、そのような世界でみながアイコンになろうとし、数の論理に埋もれインフルエンサーやアルファツイッタラーに憧れる世界はかなり歪んでいると思う。単純にそれは資本主義やブランディングの論理であって、それが公共性に繋がることはないのだろう。

人間と人間を架橋するには「時間」が必要であって、その時間を提供しているのがシラスなのではないだろうか。8時間放送するのは通常の番組構成からすれば狂気の沙汰だけれど、しかしその「時間」によって「軸足」を形成するしかないのが人間というやつで。

アイドルとファンの関係のように、あらかじめ決められた関係性のうちに押し込まれた世界で共有できるものは限定されている。人には不可侵領域があり、そこに侵入してはならないというアイドルとファンの関係は正しいことでもあるけれど、正しさに閉じられている限り、正しさの外に出ることはできない。他人と適切な距離を置くというリベラルの価値観は正しいことでもあるけれど、しかしそうした距離を取っている限り、人間が実存的にあることからはどんどん離れ、儀礼性へと埋没していくことになる。そうして人間は適応を余儀なくされ、再配置されていくことになる。そうならないためには古谷さんがそうしたように実存を提示し、保守やリベラルという価値観を二次的なものとして捉えるしかないのだと思う。人間はまず人間であるというものすごく当たり前のことがおざなりになっている。ネット上ではそのように見えてしまう。それはとても危険なことであろう。

 

ネトウヨの言うところの「日本人」だったり、リベラルの言うところの「被害者」は、無視できない側面も含むけれど、そうした属性で語れば語るほどに人間が記号として消費されていく世界になってしまう。

パッケージ化されない空間、人が目的化されない空間、儀礼性の外に出ることができる空間、人間を人間として認識できる空間

 

そういうものを提示するしかないのだと、シラスの運営者である東さんはよくわかっているのだと思う。

正直、誤解を恐れずに言えばシラスを見ている時に時間の無駄と感じることもある。外形的に見れば酔っ払いがくだを巻いているだけの動画と見る人がほとんどだと思う。しかし「管を巻く」ということの意味を僕達はほとんど忘れてしまったのではないだろうか。コストパフォーマンスや自己啓発的なものに侵食され、情報的に判断することに慣れ過ぎてしまった。ツイッターなどの高速コミュニケーションツールがその典型だけれど、その弊害が各所で噴出してきている。

つまるところ人間は人間でしかない。そんな当たり前の認識を古谷さんは思い出させてくれた。

ありがとうございますと、ただそれだけを書こうと思ったのだけれど、長々と書いてしまった。自らの主張に援用するのは悪い癖なのかもしれない。

おそらく読まれることはないと思いますが古谷さんありがとうございます。できることなら、亡くならないでいただきたいです。

野党のジレンマ~コミュニケーションと議論の乖離~

野党の支持率が軒並み1桁という報道を見た。
野党の存在感が薄れて久しいけれど、なぜここまで野党が支持されないかは議論されるべきではないかと思っていて、その理由を愚考したので書いていきます。
 
報道されているように野党の支持率が低いため、自民党がどのような振る舞いをしても問題にならない。選挙ではどうせ勝つという目算があるためだろう。それは事実としてそうであり、菅総理の支持率がいくら低迷しようともきたる選挙で自民党が勝つのは目に見えている。
自民党の一党支配の現政局において、野党がだらしないからだと批判するのは簡単であるが、はたしてそうなのだろうか。もちろん野党の立ち回りがうまくなかったということはある。主なものとしては前原誠司氏が旧民主党を分裂し、希望の党小池百合子と合流しようとしたり様々な要素が絡んで今のような支持率の分布になっている。しかしながら民主党の振る舞いだけを論拠にここまでの低い支持率を説明するには無理がある。野党の立ち回りがそこまでまずいものだとは思えないのだ。立憲民主党などは穏当な主張をしており、国民感情と照らし合わせて見てももっと支持されても不思議ではない。
たいする自民党も積極的に支持されているわけでもなく、日本ではいまだに無党派層が支配的ななか、野党に支持が集まらないのは国民の考え方や生活態度に理由があるのではないだろうか。
 
結論から言えば批判すること自体がマイナスポイントになっている。そんなベタな感情の働きが作用しているように思う。
インターネットでは批判ばかりの世の中のように見えるけれどインターネットにいる人はインターネットに書く人しかいないので、ネットの印象をそのまま受け取ると重大な錯誤に陥る。また、政治を議論する人は政治を議論するような人しかいないので、ある程度の批判は想定済みだったりする。一方で現実はどうなっているかといえば、ネット上とは対照的に批判することはものすごく気を遣う行為になっていて、ハラスメントをはじめとし、他人にたいして諫言することはほとんど御法度であるとさえ言って良い。今の社会における理想的なコミュニケーション作法はようするに相手を批判しないことで、このようなコミュニケーション作法と政治的議論はかみ合わせが悪い。
以前はコミュニケーションがここまでピーキーなものではなかった。ある程度無作法なコミュニケーションをしても許されるだけの余白が社会にあったように思うが、ハラスメントの問題などが出てくると他人と喋る時は神経質にならざるを得なくなった。どんな発言が相手の傷口に触るかわからない。だからみんなコミュニケーションに気を回すようになり、それはそれで良いことでもあるけれど、そのようなコミュニケーションの現場では議論することができなくなってしまったのだ。コミュニケーションという枠組みの中において議論は存在できなくなっている。
 
他人には他人の自由があるという考えが分水嶺を超えて他人と議論することがもはや成立しなくなっている。ネット上のようにある種のコードを共有している人同士が議論することはあっても、お互いの了解がない限り議論することはゆえんクソリプとしてしか受け取られない。現実に議論をふっかけるような人はそれだけでメンドクサイ人であると思われ、議論の内容よりも先んじて回避される。そして、それが今の野党なのだろう。他人に侵犯しないという自由主義が他人と議論しなくてもかまわない空間をつくり、議論の場そのものを吹き飛ばしてしまう。
 
リベラリズムは自由な議論や自由な意見などを表玄関の表札として飾る一方、他人を家の中に招き入れないことを良しとしている。
わざわざ家の中に他人を招き入れ、茶を出し、顔をつきあわせ、喧々諤々と議論するような人はいまや相当な変人であり、そのような人のみで構成されるネット上の政治議論は「辺境」なのである。
多くの国民は自由な議論をしても良いと言いながら自由な議論の当事者にはなりたくない。ハラスメントする人がハラスメントされた側に「なぜあなたはハラスメントだと感じるのか、自由恋愛を侵害するなら相応の理由を説明せよ」というネットでよく見るフェミ談義のようなものをふっかけた時にどうなるかは説明するまでもないだろう。みなただ離れていく。
そのような状態にあって国民の多くが政治の良し悪しを判断する材料をなくし、一方で政治議論に夢中の「政治人」はネット上でタコツボ化していくことになり、分断が生まれた。「なぜここまでの愚策を行っている自民党を国民は支持しているのか」というネット上でよく見る文句を説明するのであれば、多くの国民は政策を判断したり、保守やリベラルというイデオロギーを持つまでの過程、つまり議論から完全に離れてしまっているからであろう。
 
このような状況で与党の政策を批判する野党にたいして国民が同調するかと言えばほとんど不可能に近い。野党の存在意義である批判をすればするほどに「議論そのものを回避する性向を持つ国民」はマイナス評価を与えていくからである。だからといって野党が与党が批判しないなど愚の骨頂で、野党が批判することによって守られているものも当然ながらある。しかしながら国民を守ろうと批判すればするほどに国民は離れていく。これが野党のジレンマとなり、支持率の低迷を招いている。
 
以上のような政治的な議論の現場にあって野党が支持を取り戻すには、メディアが変わるべき部分があると思う。「与党が○○の関連法案を国会に提出し、野党が反対しました」というような報道は国民が批判にマイナス評価を与えていなかった時代にあってこそ中立的であった。しかし批判することがマイナス評価になる現代にはそぐわない。かわりにたとえば「与党が憲法改正を主張しましたが、野党は現行憲法を守ろうと努めました」と報道するなど言い方ひとつでなんとかなる部分は多いにある。
もちろんメディアの報道の仕方などは一要素に過ぎず、国民が議論を回避する性向そのものをなんとかしない限り、野党とりわけ立憲民主党が政権を取ることは難しいと思う。それでもそろそろ「無党派層の非政治性」に目を向けなければいけない段階まで差し迫っているのではないだろうか。無党派層が政治に参加しないことを切断処理してはいけない。無党派層が政治に参加したくなるようなメディア空間、コミュニケーション空間をどうデザインするのか、抽象的に言えばそれが最も重要な課題であると思っている。