メロンダウト

メロンについて考えるよ

人間の自律意志を超えるモノとしてのポケモンGO

またポケモンGOについて。

ソーシャルゲームやパチンコなどもそうであるが人間の自律意志を超えてくるコンテンツが存在する。僕はポケモンGOもパチンコと同じだと思っている。中毒性や永久性によって人をコントロールするシステムが組まれている点で同じだ。ダイナミズムの点で言えばパチンコよりもタチが悪い。

今は僕はゲームはほとんどやらないのだが最近のゲームはもれなく終わりがなく自分の意志で終わらせない限りは半永久的に続けられるようになっている。

ドラクエ10しかりパズドラしかりポケモンGOしかり。以前はセフィロスを倒したら終わり、バラモスを倒したら終わりなど終わりが用意されていて強制的に終了するゲームのシステムは自律意志に頼らずとも子供でも「必ず飽きる」ように設計されていた。それがゲームが現実に侵食しないようにあくまでエンターテイメントとしての最低限のゲーム会社の倫理だったのだろう。

だから僕は昔はゲームは好きだったが今のゲームはそもそも絶対に始めようとすら思わない。僕の周りにも昔はゲームが好きだったのに今のゲームは見もしないという人がいる。ゲームが面白くなくなったのではない。ゲームがゲームであるだけではなくなって現実に架橋しはじめたことが危険ということだ。

小学校のころ友人が放課後にサッカーに誘ってくれたのを帰ってRPGをやりたいがために断った記憶がある。そのくらいゲームは良い意味で魅力的で悪い意味で誘惑的だ。仮に子供のころに友人の誘いを断るほどに面白いゲームが永久に続くものだとしたら永久に僕は友人の誘いを断りつづけていたかもしれない。

 

ゲームもパチンコでもなんでもいいが魅力と誘惑の境目は供給側で確保しないかぎりプレイしている側がコントロールすることを期待するのは反倫理的だと言っていい。人間の意志なんかクソみたいに弱いものでそれを超えるモノをつくって流通させて使い方を使用者に求めるのは不誠実だろう。端的に言えばポケモンGOもパチンコもソシャゲも軽度の麻薬のような要素がある。ポケモンGOとパチンコを同列に語ると怒られるかもしれないがポケモンGOのほうが人身事故の可能性などを考慮すればより危険であることは間違いない。パチンコなんかせいぜい店の中で一畳ない空間で完結する玉転がしである。

 

そしてこの手の中毒性が高いビジネスモデルの経済的な同一性は供給曲線をシフトさせるのではなく需要曲線を歪めて利益が上げるように作られている点である。パチンコなんかまさにそうで端から見れば機械自体の価値などたかが知れているのだがパチンコ玉をはじく鼓動、サブリミナル、確率の誘惑などによって爆発的に需要を喚起することによってのみ利益を出す。

 

結論としてはポケモンGOでもパチンコでもなんでもそうであるが人間の自律意志を超えるコンテンツや現実に架橋するようなゲームを供給するかぎりはなによりも倫理的でなければいけない。そしてゲームの倫理は昔たしかにゲーム業界が持っていたものでその倫理は簡単な言葉で言えば「誰でも安心して遊べるゲーム」というものだろう。

具体的に言えば現実に侵食しない、人を煽動することもない、いつか飽きるように設計するなどなど。ゲームはゲームでしかなく現実的にはただのデジタル世界のデータでプログラムの羅列であってアナログ的にはゴミだと思ったほうが良い。

そう考えたほうがまあなんかもうすこし人間が楽に人間でいられる世界になるんじゃないかなと僕は思うよ。

 

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