メロンダウト

メロンについて考えるよ

大学に意味がないわけがない。あるいは理系による文系批判への回答

意識高い大学生みたいなタイトルだけど・・・
大学に意味がないという趣旨の記事

pendragon.hatenablog.com

を読ませていただいたのだけど大学に意味がないのはある側面からは間違っていないとは思う。しかし「意味がない」という言葉は述語としてでかすぎるのでもうすこし細分化して言葉にしたほうがいいと思った。「ない」とか「ある」というのはざっくりぶったぎりすぎだね。
言及元ブログで書かれていたようにもちろん学問上の意味がない大学は存在する。去年だったか見たニュースでFランク大学では四則演算やアルファベットを教えているみたいなので意味も糞も存在しない大学はある。これらの大学はそもそもが高等教育として定義される大学の体を成していない。モラトリアムを与えるためだけ、社会に対しての立場を大学生とするためだけのエクスキューズ機関なので本当に意味がない・・・のだろうか?
 
環境としてのレゾンデートル(存在意義)
僕が通っていた高校はまさにFランク大学の付属高校で同級生はみんなエスカレーターでそのままFランク大学に進んだので僕もある程度はFランク大学について知っている。授業の内容に関しても上述した四則演算ほどではなくてもTOEIC500点のための授業や受験科目の政治経済の講義をそのまま流すような授業だったらしい。けして専門的な学問を治める場所ではないその大学に行っていた友人達は・・・みな楽しそうだった。日本の大学生活は人生のシーンとして切り取ってみた時には振り返れば非常に特殊な期間だったと思い返すことができる。そしてそれだけで意味はある、と僕は思う。
 
大学は最も知識レベルが同じ人間が集まる場所。(成績の上下関係なく)小学校から中学校、高校と知識レベルがタコツボ化して最終的に収斂して集まる場所が大学だ。同じ知識レベルで話が一番合う人間同士が集まる環境は大学にしかないように思う。頭が良い悪いを超えた最適正された大学の人間関係はそれだけで十分に意味がある。わかりやすい例として東大生は特殊なしゃべり方をする人が多い。彼らは頭の回転が速すぎて口先がついていかないと言われているけど、一般人に話す時には話の本題に行くまでに喋るべき前提が多すぎるのであんなしゃべり方になっているのだと思う。けれど東大生同士だと前提を共有できているのでもうすこし穏やかに話を切り出せるのではないだろうか。そういった知識レベルが同質な環境が大学にはある(知識レベルという言葉に棘があれば「前提」のほうが良いかも)。
一方、社会に出ればとんでもなく頭が切れる経営者の下に闊達なサラリーマンがいる。さらにその下に窓際サラリーマン。そのまた下に非正規労働者と混在する人間関係の中で生きていかなければいけない(職業によるが)。
 
もう一点、環境としての大学の意味があり大学は自由であること。自由だ。単位などはあるが、おおむね、自由だ。うざったい上司に避けようもなくからまれることもないし、営業成績や給料で他人と比べたりすることもない。なによりも取引にさらされていない人間関係の自由さが大学にはある。資本に晒されていないので他意を必要としないまま生きていける環境なので精神の自由を謳歌することが可能な場所だと、個人的な経験では思う。
大学は「知識レベルが収斂した自由な人間関係」だけで意味がある。そしてそれは学問云々よりもはるかに大切な人生の果実になるように思う(大げさですいません)。これが環境としての大学のレゾンデートルである。
爆笑レゾンデートル動画です。この駄文より100倍面白いよ。
 
 
では学問に関してはどうだろうかというと文系、理系ですこし違ってきそう。僕は文系なので理系の専門的なことに関しては寡聞にして知らないので言及することは避けたい。文系とひとくくりに言っても理系に近い経営学や政治学などの社会科学と文学や倫理学のような人文科学ですこし様相が違う。文系の意味というと大仰すぎるテーマなので手にあまるのだがすこし抽象的な話に落とし込んで書いていくことにする。
 
大学で社会科学を学ぶ意味とその重要性
よく理系の方に言われることが文系など意味がないというもの。彼らの言い分は文系は理系のような実務能力に欠けていて社会の役に立たないというもの。かなり象徴的な文系にたいする批判なのでこれに答えていけばすこしわかりやすくなる。
 
たしかに文系は意味がないように「見える」。見えるだけであって文系の発明も存在する。資本主義、民主主義、社会主義立憲主義、金、市場、私有財産、権利、義務、責任などなど。これらは実態がなく概念の発明であるが社会を円滑に回すために欠かせないものであることは疑いようがない。金ひとつとっても概念的なものである。そして金がなければ資本主義もない。資本主義もなければ私有財産もない。歴史的に見れば私有財産という価値観はかなりおかしな価値観であってもともと土地を所有するなんてない時代があった。しかし金で回す資本主義によって土地の権利を購入できるようになり、同時に安心も手にすることができるようになった。
概念の発明は続いていて金や権利はあまりにも常識すぎて「見えない」だけで社会で共通して認識すべき概念を発明するために努力している文系の学者は存在する。文系に意味がないわけがない。同様にその学者を育てる文系の大学生も意味がないわけがない。
 
人文科学(文学、哲学等)への批判について
社会科学への返答だけでも文系に意味があると言えるが文系を批判している人は文学や哲学などの人文科学についての批判もあるのでそちらにも回答しておくことにする。
基本的に人間には人間の条件みたいなものが「必要」であって端的に言えばやっていいこととやってはいけないことがある。ドストエフスキー罪と罰が非常に有名であるが人間を人間たらしめている倫理観は罪によって成立するんですよね。罪というと非常に抽象的だけど例えば人を殺してはいけないなどはっきり言って論理的な説明が必要とされる種類の話ではない。論理的に殺していいと計算できる人間なんてごまんといるわけであるがそれでも殺さないのは罪と罰によってでしかなくその「話をする」ことが人文科学の最も重要な役割であると思う。関連した話で軽い未来予測をすれば今問題になっているシンギュラリティーやAI(人工知能)がある。AIが社会科学と結託して社会悪と言える人間を殺していいと計算したとする。おそらく何の感情もなく。しかし人間はたとえ極悪人であっても殺したという事実に耐えきれるようにはできていない。そこに人間が人間である条件があって人文科学はその条件を話したりあるいはその罪を洗う言葉を提示したりする役割を背負っている。これだけ平和な日本でこんな話をするとあまり現実感がない。そんな言葉を必要としている人もかなり少ないと思う。僕もそんなにいらない。
しかし歴史を振り返れば戦争が耐えず宗教が物事を決定していた時代においては非常に重要な学問であった。未来においても人工知能が人間を超えるいざその段階まで来たら人間を定義する最後の砦となるのは文学であり倫理学であり哲学でしょう。これだけのんびりした社会においてはまったく役に立たない人文科学であるが人間がどこまでを人間て言うんだっけっていう未来は、おそらく来る。たとえ今はいらなくとも、人文科学はその時まで大切に保持していたほうが良い。
 
 
まとめ
大学に意味がないなんて嘘でしょ
希望の倫理

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