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メロンダウト

メロンについて考えるよ

そろそろミニマリスト論争について決着をつけよう

ミニマリスト

ちょっと前に流行ったミニマリスト論争。僕自身ははてぶからただ眺めているだけだったのだがブログをまともに書き始めたので思考をまとめて記事にしておく

 

ミニマリストという生き方に魅力を感じないし怖くもない - あざなえるなわのごとし

マキシマリスト宣言:好きなものを、たくさん買おう。 - 外資系OLのぐだぐだ

ミニマリズム関係なく「ミニマリスト」が胡散臭い理由 -

テレビがないので毎日絵を見ています!!!今なら電気代も無料!!! - hitode909の日記

ミニマリストがビックカメラへ買い物に行った結果 - ブログタイトル思いつかない

 

 

あいも変わらず僕は抽象的な話も中傷的な話も大好きなのでミニマリストについて語る時に僕が語ることはミニマリストになろうと考える思考様式とミニマリストを否定する思考様式。ただそれだけなので善悪を語るようなことはしたくない

 

他人がどんな生活様式で生きていようが自由だからだ。海外では家の中に土足で入る文化が多いが僕はそういう家に入るときに裸足で入るようなかたくなさは持ち合わせていないしブログで社会性や経済観念の名をもって他人の思考の自由を妨害するようなことはしたくないからだ

 

 

 

まずなぜミニマリストになるのだろうかメリットとデメリットを見て考える

メリット

  • お金が節約できる
  • 対人のコミュニケーションが活発になる
  • 掃除が楽
  • 部屋を広く使える
  • 物による刺激を排除できる
  • 余計な思考をしなくて良い
  • 穏やかに過ごせる

 

デメリット

  • テレビやゲームなどがないため社会性が減る
  • 何もすることがないので寂しい
  • 欲望がなくなる
  • 外に出れば刺激があふれているので刺激にたいする耐性が減る

 

 

メリットとデメリットを比較して見てみるとミニマリストになる人はおそらくなる以前は疲れていたか消耗していたかどちらにせよ現在の過剰消費社会からの逃亡願望のようなものがあるんじゃないかと思えてくる

僕自身も興味のない芸能人の話に相槌をうって話を合わせたり東京のような歩いていれば必ずどこかの企業の広告が目に入ってくるような町並みには疲れたりすることがあるし、おそらくそういうニヒリスティックな感情っていうのは都会に出てきた人間なら誰もが必ず一度は経験するものだと思う

けど僕は私よりも公に属しているから僕でいられるわけでそういったうるさい社会を否定することはほとんどこの社会からの死を意味してしまうので普通の人間は社会にたいする気持ち悪さを押し殺してゲームや漫画にアニメ、小説やテレビなどに興じて新しいiphoneが出たら行列をつくる

そうしていつしか僕は私を殺してしまう

 

そういったものに気づいた時にこの社会からの脱皮を図ろうと試みているのがミニマリストなんじゃないかな

これってそのまま受動的ニヒリズムや彼岸という考えを持つ仏教とニアリーイコールのように見える

受動的ニヒリズムとはペシミズム(厭世観)やデカダンス(虚無的、退廃的)であり、疲労のニヒリズムすなわち弱さの徴候であり、その代表として(ニーチェは仏教を誤解していますが)全てを投棄し彼岸に逃避する仏教をあげています。

第五章 ニヒリズム

 

仏教の解釈について論じるつもりはないのでここでは言葉尻だけの話になってしまうのだが全てを投棄して彼岸に逃避するというのはまさに何もない状態、ミニマリストへの帰還に他ならない

 

そしてミニマリストは私を殺された人達によるニヒリズムということは悪しきように言えばネクロフィリア*1的とも言えてしまうのだがこれがミニマリストを否定する人達の感じているミニマリストにたいする嫌悪感に起因しているのかと思う

 

僕らは通常、常識や法律に制限されながらも欲望を原動力にして生きていくのだが

例えば女性を襲いたいという黒い欲望は法律と常識によって押さえ込まれているがレ○プなんて際際しい言葉を使わなくても単純に知らない女性に抱きつきたいという欲望は男なら誰しも持っている、法律の裏で風俗などが決してなくならないことがその証拠だ

 

常識によって見知らぬ女性に抱きついてはいけない

同じようにミニマリスト生活様式をネットや本で発信していることによって得られる情報が常識と同様に僕たちの物を買うという欲望を殺しにかかってきているような気分になってくるのだ

気分ではなくてもどこか心の中の欲望というタンスの引き出しの一番下の奥の脱臭炭の横にそっと知らないうちに物を買う欲望は浅ましいという価値観を置いてこられるような感覚になってしまう

通常、そういう情報があっても僕たちはなんだ他人が何か言ってるぞやどうでもよさなどではねつけてしまうのだがミニマリストは誰しもが持っているネクロフィリア的な感覚につけこんでくるので質が悪い・・・のか良いのかはわからないがどこかでは許容してしまう

つまり「私」はミニマリストという生き方にたいしてある意味では認めてしまい公である僕はその感覚を社会性や経済観念というものを持って否定しようと努める

ミニマリスト論争にはそんな自己超克の罠がある

 

だから僕はミニマリストを否定する気にはまったくなれない

ミニマリストの言うことはネクロフィリア的正しさがあるしミニマリストを否定する人にもバイオフィリア的正しさがある

 

ミニマリスト論争はどちらが良い悪いではない

ミニマリストに関するどんな賛美も否定もどちらもただ個人の内にある生と死の割合、公と私の割合を告白しているに過ぎないのだから

*1:死への渇望。人はバイオフィリアという生への渇望とネクロフィリアという死への渇望の割合で生きている