メロンダウト

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やまもといちろうが駆使している友敵理論について

カールシュミットといえばナチスドイツの学者であるだけでなく超保守的な政治思想を説き民主主義や自由主義と対立する人物であるが

シュミットの著書「政治的なものの概念」のなかに友敵理論なるものが書かれています。

政治的なものの概念

政治的なものの概念

 

 

簡潔に言えば政治は友と敵を区別し闘争するなかで権力が生じてくるといったもの。これは現在のリベラルの概念からは明確に対立するものですがおそらくシュミットはリベラルの言うような敵のいない世界は政治とは呼ばないと考えていたのでしょう。日本でリベラル勢力が権力を持てない構造も友敵理論で説明することが可能です。

友敵理論では敵を設定しなければ権力は生じえないと捉えますがリベラルはその概念の定義上、敵を設定することがないので日本では権力を持ちづらい政治思想だと言えます。アメリカの民主党はその意味で人種差別などの敵を設定できたことが成功した要因だと考えることもできますね。

政治は敵を設定し友を確保することで権力が生まれる。この構造は独裁国家でも民主主義でも社会主義でも変わらないと言うことができます。シュミットが独裁国家の支持者であってもその著書が(民主主義社会の)いまでも読まれている理由がここにあります。

 

注意したいのはシュミットが主張したものは戦争や殺し合いなど実存的なレベルでの闘争です。しかし同時に経済的には利害、道徳的には善悪、また芸術や美学における美醜なども同様に闘争的であるがゆえに「政治的なる」と書いています。

 

このシュミットの友敵理論は自由主義社会のなかではナチスというだけで忌避され古典と化したものですがシュミットが主張していた戦争や殺し合いほどのレベルではなくてもありとあらゆるところでこの友を確保し敵を設定することで権力を「生む」図式が散見されます。

 

代表的なものが日本共産党です。共産党の政策はひとことで言えば何もかも反対。なにがなんでも現状を維持しようとする支持者を友とし自民党などの改憲勢力を敵と設定する。一言でいえばただ文句を言っているだけで権能とは程遠いものではあるがそこに権力が生まれてくる。

たいする自民党共産党のような現実逃避勢力を敵とすることで権力を維持できる側面を持つ。

 

ネットでの意識高い系と意識低い系もお互いを敵と設定することでアイデンティティーを先鋭化して友をつくる。またはリア充と非リア充。モテと非モテ

あるいはリバタリアン的にアフィサイトを量産する人とそれを批判する人。炎上させる人と炎上を批判する人。

それぞれに敵を設定し批判することによって友があつまり権力が生まれます。非モテはどこかで(モテるようになると友が裏切られたと感じるかもしれないから)モテるようになりたくない気持ちを持ちます。意識低い系は意識高く生きるのが恥ずかしいなんてことを思う。シュミットの理論でいえば友敵を区別しその闘争にアイデンティティーを見出し権力を意識する点では人々はすべからく「政治的なる」と言うことができます。

 

 

とここまで書いてやっと本題ですがやまもといちろう氏は友敵理論を意識的に使っているような感じを受けます。

選挙関連でもやまもと氏の記事を読みましたが彼は政治をゲームとしてとらえている印象をつよく持ちました。投資家をやりながらネットの炎上案件に正論をぶつける本来のスタンスの記事でも感情的には興味がないのに敵を設定して遊んでいるような印象が強いんですよね。社会のことが書かれている記事であれば書き手の怒りや悲しみ、またはどういう形であっても正義が感じられるものですがやまもと氏の記事にはその「感じ」がほとんど見受けられないのですよね。唯一感じられるスタンスは「冷笑」です。

じゃあなんであんな記事を書いているのかといえば友敵理論を駆使して得る権力欲に近いのではないかとまったくの推測ですがそう思うことがあります。

 

やまもと氏の記事のように客観性を重視し正論が書かれた記事がメディアでは良い記事とされます。中立性というやつですね。

主観性を排除し客観性や論理によって書かれた記事が読み手に誤解を与えない大人しい記事だと言われていますがしかし

 

そんな都合のいいものがあるか!!!馬鹿野郎!!!

と訴えたのがカール・シュミットなのでした。。。(雑)