メロンダウト

メロンについて考えるよ

人に物語を見なくなった世界で

コードが違う。それがシロクマさんの記事を読んだ感想だった。スタンスとしては清潔感や正しさの敷設への疑義という点で僕もシロクマさんと同様の感想を持っている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

コミュニケーションをしなければ人のことなど何もわからないという人間社会の大前提を忘れているような気さえしてきた。結婚している人間は幸せで非モテは不幸という至極単純化された論争がちょっと前のインターネットにあった。あの時にも思ったがそんな単純化できるほど人間は簡単に規定できるものではない。みんなそんな幸せにだけ生きてるわけではないし不幸だけで生きてきたわけでもないだろう。というか非モテであろうとモテていようと本質を別のところに求めようとしなければどうして人を人として見ることができようか。非モテかどうかなんてどうでもいいだろそんなことと当時は思ったものだ。

 

どうでもいいんだよ。タバコを吸っていようが、吸ってなかろうが、男だろうが、女だろうが、日本人だろうがアメリカ人だろうがケニア人だろうが。人をカテゴライズし個別的コミュニケーションを放棄してその人間をメタで認識することはすべからくヘイトなんだよ。中国人だろうが韓国人だろうが非モテだろうが喫煙者だろうが人を判別する要素としては些末すぎる。どうでもいいよそんなこと。人を嫌うなら人と話してその個人を嫌えというだけの話をなぜ属性分けして物事を語りたがるのか。

 

ある属性で人間をカテゴライズしそれを躊躇いなく言ってしまえる人はコミュニケーションを放棄している。こうこうこういう人間はこうであるといった単純化された世界観でしか人を認識しなくなり言語が通信手段でしかなくなった人達がわりといるのだろう。ネトウヨ嫌韓はてな嫌煙はそういう意味で同相である。それがシロクマさんが地下茎でつながっていると書いた理由であろう。

 

しかしまあ嫌煙家が出てくるのもわからなくはない。自分は喫煙者だから上述したようなわりと寛容な感想を喫煙問題に見るが、非喫煙者と接する喫煙者は非喫煙者の前でタバコを吸う喫煙者しかいないからであろう。自分は仕事中はまったく吸わないし、非喫煙者がいる空間でも吸わないし、喫煙所で吸うタバコはうまくないうえに煙が充満していて服に匂いがつくのでほとんど入らない。自宅か車の窓をあけて吸うか開けた場所でしか吸わない。つまり現状、マナーの悪い喫煙者しか非喫煙者の前に残っていない。つまり嫌煙によって分煙がすすみ分煙によってさらに嫌煙がすすむという構造になっている。パワハラおじさんだけを集めた会社が地獄みたいな話で分煙によってスクリーニングされて嫌煙がすすんでいる。ので嫌煙家がでてくるのもわからないではない。

 

しかしそれと道徳的視点、ヘイトかそうでないかは完全に別である。自分の主観的な経験だけで人をカテゴライズして侮蔑していいということにはならない。

ネトウヨの問題などもそうであるがこれらの問題の根底にあるのがコミュニケーションせずに人を認識すること、つまり人に個別の物語を見なくなったことだと言えるだろう。例えば女子高生は女子高生でしかなく、きもくて金のないおじさんはきもいでしかない。タバコをすっている女子高生もいるだろうしきもくて金もないが闊達なおじさんもいるだろう。個別で認識すべき人間にたいしてメタでカテゴライズして認識するのは必ず浅薄な世界観を形成してしまう。

そういった単純化された世界観で人を認識する人間をタバコは抽出してくれる。タバコは過去、物語の産物だった。宇多田ヒカルのファーストラブの歌詞しかり紫煙に人生を見たものだ。別にそんな人生などと大仰なことでタバコを吸っているわけではない人もいるだろう。しかし非言語コミュニケーションとして言葉を介さずともなにがしかを共有する媒体としてタバコは存在できていた。科学的にくさい以上のものを媒介するものだったがしかしまあそんなことは幻想と言えば幻想だった。しかし非言語的幻想、不確かなものだからこそ人はそこに人を見ることができたし見ようとしたのだろう。

別にタバコを吸っていなくとも吸っていようとも人とコミュニケーションをとりその人の中に物語を見ようとすることは当たり前のことだ。

コミュニケーションを取り、人の物語を聞き、人の中に物語を見て仲良くなる。そんな当たり前のコミュニケーションをとれというそれだけの話でしかない。喫煙者であろうと仲良くなれる人もいるだろう。ゆえにコミュニケーションを取る前から属性によってヘイトするのは間違っている。この意味でシロクマさんはタバコ問題にたいして「道徳」という言葉を使ったのでしょう。

しかしまあ仲良くなるなんて言葉も最近はハラスメントだったりするのかね・・・