メロンダウト

メロンについて考えるよ

安倍元総理おつかれ

安倍総理がやめてしまった。自分は基本的には反自民ながら消極的安倍政権支持というスタンスも持っていたのでこれからどうなるのか不安でしょうがない。

というのも日本は安倍政権のおかげでアメリカやイギリスのようなポピュリズムから逃れているという議論があるからである。安倍政権が防波堤になることでポピュリズムに飲み込まれずに政治をやれていたふしがあり、それはたぶん安倍総理の「人格」ゆえだと言うことができる。政治的議論において人格を言い出すのはふさわしくないと言われるだろうけれど人格以上に政治的なものはある意味ないと言ってもいい。

 

安倍元総理は自民党経団連といった支持基盤とは裏腹に弱者の味方というイメージを定着させるのがうまい人であった。森本レオのような柔和な喋り方もそうであるし表情のつくりかたも常に穏やかでそのイメージは自民党のほかの誰にもできないものであった。安倍元総理の何が良かったかと言えば「顔が良かった」というのがひとつある。無垢な大衆を惹きつけるのに外見的特徴は極めて重要であって小泉進次郎氏などもそのイメージによって人気を集めているが安倍元総理もすくなからずそのような部分があった。そしてそれゆえに大衆を安直な政治的思考=ポピュリズムから回避させていたという側面がある。すくなくとも僕にはそのように見えていた。

自民党ネトサポやネトウヨといった安倍政権支持のコメントなどをそこかしこで見てきた8年間であったがどれをとって見てもそこにはある種の軽さがあって友達を支持するような感覚で書き込んでいるようにしか見えないものが多々あった。それは安倍さんを人間的にとらえて支持するといった芸能人をまで見るかのような側面があった。このような支持の集め方は政治的言説の中では悪いことだと言われるものだが外見的特徴によって軽い支持を得るのはある意味では平和そのものであってそれゆえに政治が政治から離れてしまった、しかし同時にポピュリズムとはならなかったのである

実際に安倍総理はおそらくは良い人なのであろう。良い人を支持するという軽薄な政治が逆説的に良い政治になりうるというのがポピュリズムが蔓延した世界でのベターな選択肢になることがある。もちろんそれは安倍政権が意図したものではないのだろう。

以上のような軽薄さはそこまで悲観するべきものでもないのだとアメリカやイギリスのポピュリズムを見て感じるようになった。それが数年前のことであるが大衆が政治を政治そのものとして見た時に一気にポピュリズムに流れる危険性が民主主義にはある。難民を受け入れるという善行よりも自国民の雇用を守ろうとしたBrexitにしてもアメリカファーストと言ったトランプにしても大衆の欲望をストレートに政治に反映させた時に政治はおかしなことになる。それがポピュリズムの問題であるが日本においてそのような現象は部分的にしか起きなかった。N国党などがそれにあたると思うけれど大衆を煽動するような動きは日本においては極めて限定的となっていた。

それを防衛していたのは政治的な政治をせずに人格的な支持を集めていた安倍政権であることはほぼ間違いなくポピュリズムは安倍政権ゆえに日本では起きなかった。それが安倍政権の最大の功ではないだろうか。

具体的な問題はいまだ山積しているし、政策として行ったことをまったく支持しているわけではないが何がベターな政権であるかを悲観的に考えた時にこの8年間は実に平和なものだったと言うことができる。

 

繰り返しになるが安倍晋三には弱者性があった。持病のことに関してもそうであるし、時に気弱にすら見える性格もそうで何も明言しないという玉虫色の言動にしても弱者性が常に付随していた。その弱者性ゆえにリベラルな若者からも支持されていた。

弱者や無謬な人間が支持される今の社会において安倍晋三こそがリベラルそのものでありそのリベラル的軽薄さこそが極右というポピュリズムの防波堤となっていた。それは自民党保守という政権からすればまったく真逆の影響なのだろうけれどその二面性ゆえに長期にわたって政権を担うことができたと言えるだろう。

 

そしておそらくはこれから日本にもポピュリズムの波がやってくる。小池都政マキャベリストっぷりや大阪維新の会などを見てもそれは部分的にはすでに存在しているもので国政にもそれはやってくるはずだ。小泉元総理のような新自由主義的なものなのかもっとラディカルなものなのかわからないがいずれにしろ安倍晋三が「守っていたもの」は終わることになる。

 

そのときにこそ僕達はまともに政治および社会、あるいは自由とはなにかについて考えざるを得なくなる。

そんな気がしている。

 

とりあえず安倍さんおつかれさまでした。

パチンコとしてのYoutube、キャバクラとしてのVtuber

スーパーチャットがキャバクラと同じだと議論になってるみたいだけれど構造としてはほとんど変わらないと僕も思ってる。

イチナナライブやアダルト系のライブチャットなんかも同様だけど。個人的には何が悪いのかと思う。ただひとつだけキャバクラなどと違うのはVtuberやアイドルに課金するのが「肯定的」に考えられているところにあるのではないか。キャバクラに行ってお金を払うのはそういう取引を行う前提があるうえでお金が支払われているがVtuberに課金する行為はとても無邪気に行われているように見える。

それがどういうことなのかわからないで行われている点で不安になる。いわんや恋愛関係やコミュニケーションそれ自体を代替するサービスは溢れている。お金を払えばそういう関係を疑似体験できるのはいかにも資本主義らしい世界であるが

しかし一つ言えるのはそれは取引でしかないというお互いの了解のうえで成立していなければおかしなことになるのではないか。現実のキャバクラやホストなどの水商売でも取引関係を超えてしまっていろいろなトラブルが起きたりしているがスパチャも同様に結論としては虚無でしかない。虚無にお金を払ってもいいと思うし、あるいは虚無でないかどうなのかは個人の価値判断によるもなのだけどそれが虚無かどうかを知らずに課金するのはやはり健全なものではないのだろう。

 

話がズレるけれどVtuberへのスパチャだけではなくYoutube全体においても基本的には虚無なものに見える。どこかパチンコと同じに見えるのだ。

ザッピングして動画を漁ったり永遠と同じジャンルの動画を見続けたりレコメンドが大当たりするのを期待してYoutubeを開くのは良い台があるかパチンコ屋に見に行くそれと消費構造としてほとんど変わらないように見えてしまう。Youtubeを見ること自体が多くの人にとって暇つぶしであるがテレビと違うのはどんな番組が出てくるのかわからない点で人々が期待するところにある。テレビ番組のようにチャンネル表を見てこれを見ようではなくレコメンドされた動画が大当たりするのをザッピングしながら待っている状態はパチンコと酷似している。

実際、依存的に見ている人もかなり多いのではないだろうか。僕もパチンコを打っていたことがあるけれどYoutubeを見る感覚はパチンコのそれととてもよく似ている。パチンコでハンドルを握りながら大当たりするのを呆けて待っている感覚と目的もなくYoutubeをザッピングしながら右手でマウスをクリックするあの感覚はほとんど同じだと言ってもいい。

現にYoutuberをはじめ多くの動画もそういう消費構造に最適化されている。極端に長い動画ではなく単発的な動画を出すことによって視聴者にクリックさせるのが最も最適化された動画投稿の方法なのだろう。しかしこれも虚無と言えば虚無である。映画やアニメ、小説などの物語を愛するようなものとは違い、面白い動画にヒットするのを待っているそれはドーパミンに支配されたパチンコ依存症のそれとたいして変わらない。もちろん動画を出している当人達はそれが面白いと思っていて面白いが正しいと信じているのだろうけれどパチンコ屋に置いてある台は面白ければ面白いほど依存症になる危険性が高い。

だいたいがザッピングしてても時間の無駄といっていい動画しか出てこないけれど稀に面白い動画にヒットすることがあってみなそれを期待する。 

パチンコ依存症を揶揄する例としてよくあげられる心理現象に人は押せば当たりが必ず出るものより何分の一かの確率で当たりが出るものにより強く惹かれるというものがある。

サルを完全に破壊する実験として有名だけれど

まず、ボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルは、ボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったらまた箱のところに戻ってくる。

ボタンを押してもその箱から餌が全く出なくなると、
サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して餌が出たり出なかったり
するように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。

 

いわゆるドーパミンによって餌が出てくること自体に快感を覚えるようになると言われている。パチンコでも大当たりしにくい台、ギャンブル性が高い台ほど人気があるのはこの心理ゆえだと言われるがYoutubeで永遠とザッピングする視聴者の行動もパチンコやサルとほとんど同じだと言える。

ただこれもパチンコと違うのはこういう消費構造が一方で良いものだと思われているところにある。自分が知らない面白い動画を発見するのは新しい世界を見つけるものとして良いものだと考えられているふしがある。しかし僕にとってそれはとても無邪気な物の見方に見えてしまう。知らないもの、あるいはわからないものに惹かれるのは人間の好奇心ゆえでそれは一般に正しいことだと思われているがその「わからない」や「偶然」という心理ゆえに人はギャンブルに依存したりするのだ。

 

パチンコはギャンブル依存症という病名がある通り危険なものだという認識が一般に存在しているけれどYoutubeは違う。あまりにも無邪気に消費していることに元パチンコ依存症として違和感を持ってしまう。こういった人々の心理に最適化されたサービスはYoutubeに限った話ではなくまとめサイトやニュースなどのメディアも同様でどこもかしこもUIを最適化している。ビジネス上、UIを最適化するのは正しいけれどそれは供給者側に立った視点でしかなく消費者側から見た視点は別に考えなければいけないこともある。そう思っている。UIを最適化しなかったニコニコ動画は(当時から見れば)衰退してしまったけれど消費者から見るとあのUIは不便ゆえに依存的ではないのだ。僕も実際にもうニコニコは目的の動画がある時にしか開かなくなった。けれどYoutubeはたまに目的もなく開いてしまうことがある。

 

知的活動として好奇心をブーストさせ依存するYoutube、あるいは人間関係を代替してスパチャによって関係を強化するライブサービス。

いかにも資本主義らしい世界であるがそういう消費の仕方は危ないと誰かが言わなければいけないのだと思う。別に何が悪いわけでもない。スパチャでいくら送金しようが個人の自由だと言えばそれまでだしYoutubeを見続けても何も悪いことなどない。しかし悪いことではないけれど危険なことはこの世界にはたくさんあってたとえばパチンコをやることも悪いことだとは言えないけれど危険だったりする。そういうものがけっこう資本主義的な世界では勝っていたりして独占的にふるまっていたりするのだ。人間の心理が資本主義に最適化されたものであればいいけれど人間をいかに動機づけるかがサービス側の視点でそれに無自覚についていくのは危険だよと

子供にたいしては大人が言っているけれど大人にたいして言う人はいない。いずれにしろそういうものを無自覚に消費するのはとても危険な行為であって大人でも子供でも依存の前に立たされた人間は自制心など時にあってないようなものである。

それは別段サルと変わったりはしないと、経験的にそう思うのだ。

噂話の暴力性~はてなブックマークのコメントを閉鎖します~

しかしなんでこんなに際限なく誹謗中傷ユーザーが湧いてくるんだ?このご時世にバカとか誹謗中傷としてストレートすぎて笑うわ。しかもなんかスターついてるし。訴えるぞそんなこと書いてると。開示請求がどんなもんなのか一度やってみたくはあるんですよね。こんなこと書く相手に本名を教えるのはリスキーすぎるのでやらないと思いますが。

教養がなんなのか一家言あるのか知らんが教養とは人にバカとか言わないことですねマル

文学が教養だったことはあったのか? - メロンダウト

文学が教養じゃないない理由が主人公の気持ちを聞く問題という時点で、文学も教養もそして論理も理解していないバカ。逆説的に文学の必要性を説いている。

2020/08/20 12:06

b.hatena.ne.jp

 

こんな泡沫ブログに書いてあることなんてどうでもいいだろ。はてなのインデックス基準が変わる前はブックマークにも何回か記事や増田が載ってそのたびに誹謗中傷(とそれに準ずる)ユーザーをブロックしてるけどなんでこんなにとめどなく湧いてくるのか・・・もう200ユーザー以上はブロックしてるわけだが。低能先生の件から何も変わっていなくてなんかもう絶望感がすごい。こんなコメントを低能先生が書いた増田にしたら比喩でもなんでもなく殺されてるぞ。

もうめんどくさいからブックマークのコメント機能をすべて非表示にします。なにかある方はブログのコメント欄に書いてください。返信もしますので。

 

自分がブコメを書くこともないので

plagmaticjam.hatenablog.com

これでブコメとは完全におさらばです。本当にありがとうございました。

 

 

ということで長年続けてきたはてなブックマークの総括をしていこうと思います。

たぶん上記のコメントもブログの著者に向けて書いているわけではないのでしょう。掲示板に書くように自分が感じたことをそのまま書いていてバカという言葉が相手に届くなどとは思っていない。見ず知らずの相手にたいしてバカと言うとんでもない人間である可能性もワンチャンあるがおそらくはネット上だけの振る舞いなのだろう。

ゆえん2ちゃんねる作法とでも呼ぶべき悪しきネット論壇みたいなものなのだろうがそれにしてもこの礼節の無さはいったいどこからくるのだろうか。

特殊で悪意ある個人が行っていると考えるにはあまりにも数が多い。ノイジーマイノリティーだとも言われるがマイノリティーにしても数が多すぎる。かなり一般的なレベルでインターネットは礼を消失させている。

それははてなに限った話でもない。ありとあらゆるところでそうだがネットにその人のことを書けば当事者が読むんだからブックマークだろうがなんだろうが個人にたいする批判なりを書く時にはそれなりの礼節を持てという当たり前すぎる話でしかない。

とある増田にブコメはその人に向けて書かれたものではないといったコメントがあったけれどその人が読む可能性があるところに書いている時点でそんな小学生の言い訳みたいな話は通用しない。するはずがない。

たぶん本人は噂話程度にしか思っていなくあんなひどい人がいたよ、あんな馬鹿なこと書いている記事があったよなんて具合に当事者に向けたものではないと思っているのだろうけどネット上に書かれた時点でそれは必ず当事者に届くものになる。

噂話をしているつもりに過ぎないのだろうけど目の前で噂話なんかされた日には誰であれ傷つくものだろう。

それが今言われているような誹謗中傷の実態とかなり近いのではないかと感じている。ストレートに相手にたいして罵倒するような人は少なくとも噂話のレベルになると当事者の気持ちを考えないで書く人が多数いてそれが直接本人に届くことで本人はそれを「客観的意見」かのように受け止め、通常の誹謗中傷よりも傷つくことになる。

しかし客観的意見なんてものは存在しないしネット上において噂話で事が済むなんてことはありえないしすべてのコメントはそのまま当事者が読むことになる。もうそういう時代である。便所の落書きで済んでいた時代とは違う。

 

あとコメントでの批判ていうのも正直よく意味がわからないんですよね。上記のコメントもなにか教養について言いたげではあるのですがあれだけを書かれてもなにが教養だと言いたいのかさっぱりわからないし批判しようとしてるのは見てとれるけど論理展開がなされていないコメントによる批判はなにが言いたいのかわからずその意味で実質的には単なる誹謗中傷と同じでしかない。

 

その点でこのコメントも同じだけど

文学が教養だったことはあったのか? - メロンダウト

ドストエフスキー地下室の手記という小説〜とにもかくにも「教養」なんてもののカケラも出てこない。』 教養の意味がわかってなくてすごい。

2020/08/20 14:17

b.hatena.ne.jp

 

「教養の意味を理解」なんてしてる人がいたら是非教えてほしいし教養なんていう抽象的概念を定義できる人なんているのですかね。みなそれぞれ文化的背景がまったく違う条件で育っているなか教養はこういうものだなんて意味を定義できるはずがない。一般には西洋的なリベラルアーツが教養だと考えられるのだろうけど韓国あたりだと儒教的価値観のことを教養ととらえる人もいるだろうし日本では武士道や学問のすすめあたりが教養にあたるのだろうけどそんな多岐にわたるものを教養はこういうものだなんて言えるはずがなく

その意味で教養が意味するところはわからないのが当たり前でそれこそが教養だと思うんですけど。

あとこういう教養強要ヤクザが他人にたいして教養が足りないとか教養を知らないと言うけどたとえば文学も芸術も建築も絵画も音楽もサブカルも歴史も哲学もすべてを網羅して知っている人なんて存在するのかっていう疑問がある。一般的な基礎知識のことを教養と呼ぶのであれば基礎知識なんてものは多岐にわたりすぎていて具体的になにかを知らないから教養がないなんて言うのはそれこそ傲慢ではないだろうか。生まれ育ったところで受けた教育でたまたま与えられた書物を読んで抽象的概念として昇華させるのが教養の本質的なものであってその点で

「教養が足りない」、「教養の意味するところは」なんて言うのはただのマウンティングにしか見えないのだが。おまえの考える教養は教養ではないなんて言うのははっきり言ってめちゃくちゃである。

ドストエフスキーを読んだ時に僕はあれは教養ではないと思った。しかし教養だと思う人も当然いるでしょう。個人の価値観が違うのだからそれを教養だと思うかどうかは読んだ本人に依るものでしかない。

その点で教養の意味なんて言うのはわけがわからない。人にそうやって書くのであれば説明してほしい。その点でこのコメントも批判に届いておらず実質的には誹謗中傷にしかなっていない。

 

というかあらゆるコメントによる批判は批判に届いていない。それこそ噂話に過ぎず噂話+なんかよくわからない批判めいたことを言っている点でまったく建設的ではない。

噂話はそれ自体が暴力的であるがそれプラスなんか偉そうなことを客観的風に言っている権威主義的な側面もあって相乗効果で人を傷つける。人は単純な誹謗中傷にそれほど傷つくのではないと思っている。それが誹謗中傷にしか見えないから傷つくのであってその意味で相手にたいして礼もなく批判にもなっていない噂話は実質的にはすべて誹謗中傷でしかない。その点でブコメは最悪である。噂話も客観的意見もマウンティングも批判に届かない批判もすべて本人のことを考えていない点でひどく冷たい。人は誹謗中傷に傷つくのではない。

その冷徹さに凍てつくのである。