メロンダウト

メロンについて考えるよ

民主主義者(仮)は民主的意見しか許さない点で民主主義者ではない。

トピシュさんの記事を読んで民主主義についてちょっと書いてみたくなりました。

 

topisyu.hatenablog.com

現実に政治の話をする機会がないのはそのとおりで自分も政治の話をする人は親父ぐらいのもので職場などで政治の話をすることはほぼない。親戚に創価学会会員の公明党支持者がいるので話を聞いてみたことがあったり、居酒屋でくだを巻いてるおっちゃんと自民党批判で盛り上がったりしたことはあるもののそれも議論と呼べるものではなく政治的与太話の域を出ない。たぶんみんなそうなんじゃないですかね。政治についてまともに議論する機会がないからいきなりそういう話になっても適当に受け流す人が多いのだと思う。現実に政治的発言力を持つ人はプロ市民をはじめポジションを前提にしているためかなり単純化して話すことに成功した人達のみとなっていたりする。政治みたいに複雑なことを発声するには相応の能力が必要で、その能力を養成できる場所もない。なので結果として誰も政治について話さないか、話す人も単純化して話している。声の大きい人だけが発言権を持つ現実で民主主義が機能しているとは思えないのがまず一点ある。

だから僕がそうしているように政治について議論というか争論しているのは主にネット上になるのだけど、これが民主主義なのかというとかなりの疑問が残る。

 

ネット上での政治議論は勢力争いのうような図式になっていてそれぞれがクラスター化している。ネトウヨをはじめリベラルやオタク、フェミニズムなどの勢力があってそこのオピニオンリーダーのような人達が他の大多数を率いている構図になっていることが多い。なのでクラスター内での批判は許されない。ちょうどろくでなし子さんがフェミニズム形式主義を批判していた記事を先日読んだばかりだけど

6d745.com

差別は良くない、多様性が大事」と呪文のように唱えながら、違う意見であるトランプさんやトランプ支持者や、少しでもそう見える人を馬鹿にし、攻撃し、排斥しようとしている

 こういうクラスター内での批判意見を許さない風潮はどこにでもあって政治を動員の道具にしようとするとこういう問題が起きてくる。そして結論から言えばネット上の議論ももう動員の道具にしかなっていないのではないだろうか。

クラスター内における排斥圧力ははてなも例外ではない。このブログは最近、はてなブックマークのコメントを閉鎖したのだけど、はてなブックマークの多数派意見にたいして批判意見を書くと逆張り野郎や馬鹿といった旨のコメントが紛れ込むので閉鎖するに至った。なので一見まともに民主主義的に見えるはてなブックマークも僕のような人間を排除することによって成り立っていてとても民主主義と呼べたものではなくやはりクラスターとして先鋭化している。民主主義者(仮)は民主的意見しか許さない点で民主主義者ではない。

それはどこでも同じだろう。政治的意見を言うことは自由だと皆が言うけれどそれを言った時に多数派から批判されるのに耐えられる人は多くない。僕がそうだったように少数派は数の暴力によって圧殺される。僕という馬鹿がいなくなってはてなは平和になったのである。みんな仲間内で政治的意見を収斂させて外部に敵を見つけている。はてなブックマークで個人のツイートに全員でコメントを書いて批判するのは改めて考えるとかなりの悪趣味だろう。はてなだけではなく表現の自由戦士フェミニズムフェミニズムミソジニーミソジニーは女性など敵を見つけることによって内部の結束を強固にしている。わざわざクラスター内で仲間を批判する人はいない。そうやって友と敵を峻別することによって民主主義は動員合戦に成り果ててしまっているのが今のネット上での政治議論であろう。それを民主主義と呼べるのか甚だ疑わしいのだ。しかも現実に政治的議論がないためにネット上での議論がそのまま現実に投影されるのだから端的に言って今の民主主義は愚かだと思っている。自民党の独裁云々を抜きにしてもとても愛せるような状況ではない。コンプライアンスやポリコレ、形式だけの男女同権、セクハラなどが支配的だけどネット上および世界ではこういう意見が支配的なのでこういう社会にデザインするべき、ではないんですよ。民主主義は。そもそも民主主義は少数派のためのものであるが、今やそれは見る影もない。民主主義は民主主義者によって独裁されてしまった。その筆頭が自民党であるが。

 

 

民主主義の祖といってもいいルソーは私的欲望に基づいた特殊意志を表明することによって民主主義は成立すると書いている。個人が個人の「欲望」のまま投票行動をしてもいいという権利のうえで社会契約を結ぶのが本来のプロセスであるが今のネット上での議論を見ていると先に社会契約がきていて個人の欲望を表明することがとても難しくなっている。ルソーが正義や道徳ではなく欲望と書いたのには意味があって特殊な欲望は民主主義においては政治的決定権を持たないから欲望に従うべきと書いている。たとえばペドやカニバリズムは決して多数派にはならないが政治的表明をする権利はある点で民主主義は少数者が意見を表明する権利のためにある。

それが今や欲望を表明することは難しい。それが民主主義がおかしくなっている最大の要因だろう。個人が政治的動員をかけられると正義や道徳および美人投票によって自らの欲望を棚上げした投票行動をとるようになる。それはインターネットによってはるかに強固になった。個人が個人の欲望を表明すればすぐさま炎上する社会において個人の欲望よりもクラスター内での規律や価値基準によって投票することが多くなってきている。それは利他的な投票だとも言えて美談扱いされたりもするけれどその利他こそがまさに欲望を排除し、圧殺している。

正しさのうえにたつ民主主義は正しくない。正しくない意見、偏見、欲望を投票することができるのが民主主義の素晴らしさだということを民主主義者は今一度思い出したほうがいいと思う。

鍵かっこつきの社会~アメリカの分断と日本の分断と貧困について緊急事態宣言下のパチンコ叩きから考える~

読んだ

note.com

anond.hatelabo.jp

 

いろいろ思うところはあるんだけど、はじめに感じたのが経済格差はまだしも心理的な不寛容度で言えばアメリカより日本のほうがひどいということだった。

リベラルは怠惰な隣人が酒に溺れようが薬漬けになっていようがどうでもいいと考えていると書かれているけど、こういう自己責任論や他者にたいする無関心は日本のほうがはるかにひどいのではないだろうか。貧困にあえぐ隣人のことを気にも留めない人がリベラルと言えるのかどうかという言葉の定義の問題は別にしてこの手の問題を言うのであれば日本のほうがはるかに深刻だろう。

貧困を自己責任だと考えている人の割合はアメリカよりも日本のほうが高くてたしか20%ぐらいの開きがあったと記憶してる(検索しても数字が出てこなかった)。

アメリカは経済的な格差が日本の比ではないので生活水準においてすでに分断が起きていて誰が貧困で誰が富裕層なのかわかりやすい。なので分断を政治的問題として捉えることができる。

しかし日本では分断がないかのように社会をデザインしている。すこし前にホームレスが眠れないように公園のベンチを加工した問題があったけれど、それだけではなくネットカフェ難民なども同様で普通の人々の視界に入らないように貧困をゾーニングしている。このへんのことは開沼博さんの『漂白化される社会』にも書かれている。

また、貧困者や独身者でも利用できるサービスも充実していて牛丼屋でご飯を食べてユニクロの服を着ていればその人が貧困であるか傍目にはわからない。このように貧困を社会に過剰に包摂していることを宮台真司氏が「過剰包摂社会」と呼んでいて日本では誰が貧困なのか極めてわかりずらく、そのために貧困者同士での連帯が難しくなっていると指摘していた。

たしかに普通に生活していてもあの人は貧困だと認識できることは極めて少ない。日本の子供の7人に1人は貧困だというデータもあるけれど街を歩いていてあの子は貧困世帯の子どもだと認識できることは今はまずない。自分が子供のころはまだ子供の身なりでもなんとなくわかったものだけど今は難しい。それはたぶん良いことでもあるだろうけど、一方で別の問題を生んでいる。それが過剰包摂の意味するところなのだと思っている。

なので貧困については普通に生活していても見えないために貧困について見聞を集めるには直接そういう場所に行くか、メディアから知識として知るしかないために貧困を自己責任だと考えている人が日本ではかなり高い。一度、西成の簡易宿泊所や都市部のネカフェ難民が住むところなどに行ってみると良い。僕はどっちも行ったことがあるけれぢかなりきついだろうことは容易に認識できた。

その点でアメリカの分断よりも日本の分断のほうがある意味では深刻だと考えている。日本では貧困を社会の外に押し出すか、もしくは社会の内に過剰に包摂するかの二択になっていて貧困を貧困として直接捉えることができない。しかし水面下では着実に進行していたりする。

 

リベラルが隣人を救わないのは「べき論」みたいな感情論がそこに混じっているせいだと考えている。社会に奉仕される人間はかくあるべきだ、私たちの税金を使う人間はかくあるべきだといった不平等がある。上記記事ではリベラル支持層は貧困にあえぐ隣人を救わないと書いているけれど、一方でアメリカでは退役軍人にたいしては寛容だったりする。軍人が戦地でのトラウマからPTSDにかかり貧困にあえぐというのはアメリカではよく知られたストーリーだけど、それも結局は「救うに値する」といった値踏みによってなされている側面があるのでこれもべき論だと言える。

 

日本でもこのように物語や文脈に依存して誰を助けるべきか誰を助けないかを選別しているのは変わらない。たとえばかなり馬鹿馬鹿しくひびくかもしれないが今の日本の状況で考えるならばGotoトラベルやGotoイートがありながらGotoパチンコはない。パチンコ屋に税金を投入してまで救わないの当たり前すぎるかもしれないが、そうやって当たり前に思うほどに非道く無関心なのだろう。パチンコ屋が潰れてしまってもどうでもいいのだろうし、あるいはパチンコ屋がつぶれて失職する人間のことなどどうでもいいと考えている人が大勢いるし誰も関心を持たない。報いみたいに考えている人もいるかもしれない。そうやってパチンコ屋が潰れて失職する人は助けない一方で子供の貧困は助けるべきだといったべき論が支配しているうちは何も変わりはしないだろう。国家は誰も彼をも助ける義務があるが、国家を運用しているのは国民なので国民がべき論で考えているうちはその「べき」から外れている人が助かることはない。

緊急事態宣言が出された時にパチンコ屋が槍玉にあがってテレビなどでも連日報道されていたのは記憶に新しい。パチンコ屋もいまや小売りやアパレルと同じで寡占化していて大手企業以外は経営状態もギリギリなところが多い。そのためかどうかはわからないが緊急事態宣言下でも経営していた店があり、その店にたいして批判が集中していたけれど、潰れてもいいから社会のために店をあけるべきではないなんてホームレスを公園から追い出した思想そのままではないか。

おそらくそうやってすべてを適切化していくのだろう。ハラスメント問題にしても恋愛にしてもコンプライアンスにしてもすべてを適切に整地してその場所に適わない人を侵入させないことによって「我々の平和」は維持され、その横でネットカフェ難民が苦しんでいようがパチンコ屋がつぶれていようがどうでもよくて我々が助けるべき人は我々が決めるというエスタブリッシュの傲慢によって「鍵かっこつきの社会」は続いていくのである。鍵を持たない人間を犠牲に。

タワーマンションとネットカフェ - メロンダウト