メロンダウト

メロンについて考えるよ

純粋多様性批判〜極彩色に振り切れた世界で〜

佐々木俊尚さんが「多様性とは挿入である」といったことを書かれていた。
社会を新たな価値観に染め上げるのではなく、新しい価値観を挿入するのだという。Aという価値観、Bという価値観があればそこにCという価値観を挿入するのが多様性のあるべき姿であると。理想論としてはその通りだと思う一方、疑問がある。ダウトだ。つまりCを挿入した結果AとBの距離が開くこと、その距離・格差こそが多様性の本当の問題であるように思う。
 
 
多様性に反論すると言えば弱者をないがしろにするのかという批判がくるため、即座に封殺されることになる。社会的立場がある人であればそのようなことを言うことすらできないだろう。なので匿名であるこのブログで書いていくことにしよう。
一般に多様性と言う時、僕達は弱者を包摂する価値観と捉えているけれど、実態を振り返ってみればむしろ「弱者をつくる」ことに寄与していることに注意すべきだと言える。
最もわかりやすい例で言えば男性が稼ぎ女性が専業主婦という旧来的な家族の形が消えた日本にあって世帯間格差はむしろ拡大している。男性が稼ぎ女性が専業主婦という家族の形では社会の格差を世帯内で解消していたけれど、多様性もとい個人主義が浸透すると強者男性+強者女性の婚姻が増え世帯間格差は広がった。一方の弱者女性及び弱者男性は婚姻そのものから離れ少子化が進行している。
そして僕達はこれに反論できないでいる。個人の多様性を認めるとはつまり弱者の弱者性を認めることだけでなく、強者の強者性をも認めることであるからだ。多様性の問題とはこれに尽きるのではないだろうか。この先、社会を改革しようとすれば多様性を脱構築する必要がある。多様性により「なんでも認める」と「認める側=強者」に権力が集中することになる。それを解体しなければ認める側と認められる側に社会が二分され、誰もが認める側になろうとする、と同時に認められる側になろうとする。
みな弱者と強者の両方を望む。ゆえに弱者であることを利用して強者であろうとするような今のリベラルが生まれる。弱者として承認され強者として権力を得る。それが今の政治闘争のあり方なのである。こうした言論及び価値観の構造がある限り、永遠に多様性は達成されず、強者と弱者の格差は温存されつづけることになるだろう。
多様性が誰にとって都合が良いかと言えば強者にとってであり、それを弱者の為の価値観だと言うのは倒錯してやしないだろうか。
世界中で最もリベラル的価値観が強いアメリカ西海岸にしても尋常ではない格差があり、現実にはホームレスが溢れかえっているのだから多様性を取り入れればむしろ格差を拡大することになるのはすぐにわかりそうなものである。しかし日本では敗戦国らしくアメリカ式リベラルを輸入し、格差を拡大している。多様性とは崇高な理念である一方、無視できない現実的弊害を生む。それには注意してしかるべきであろう。
 
先述した通り、多様性は強者の強者性を認めることにその本質がある。「ムラ」や「イエ」といった共同的な規律を軒並み解体し、個人が自由に振る舞って良い世界になれば自由を発揮できる個人=強者が社会のキャスティングボードを握ることになる。
弱者がその自由を発揮し、社会の構造を変革するゆえにリベラルは革新だと考えられているが、そうではない。多様性により弱者と強者がフラットに並べられればより権力側に近い強者が実権を握ることになる。そのため、自由主義ほどに権威主義的な政治思想はないのだ。コロナ禍にあってリベラルがロックダウンを主張するなど一見すると自由とは矛盾した統治的振る舞いをしていたのも、むしろそれがリベラルの本流ゆえであろう。多様性とは強者のものであるためリベラルとは元来権威的であるのだ。その果てに国民を啓蒙すべき畜群として扱う傲慢なリベラルが生まれる。弱者は弱者として傲慢であり、強者は強者として傲慢なのだ。それは現実を振り返ってもよくわかることではないだろうか。
たとえば交通社会にあっても傲慢なのは原付に乗っている弱者であると同時にベンツやBMWに乗っている強者である。原付は弱者として傲慢でありベンツは強者として傲慢である。それが多様性がつくりだす「現実の世界」であろう。さらに言えば多様性という価値基準は「原付に乗っている強者もいるし、ベンツに乗っている弱者もいる」という「理想論」をも構築することで現実を覆い隠す機能をも持っている。その結果、強者と弱者、そして現実と理想論の板挟みになり「何も語ることができない」まま現状を温存していく。その状態こそがまさに強者にとって都合が良い世界であるのだ。
多様性とは弱者と強者の両極に振れる価値観であり、その板挟みになっているのが僕達が置かれている状況、つまり今の社会だと言える。
当然ながら、こうした言説には「女性やLGBTを擁護するリベラルが権力側であるはずない」といった批判がくる。実際、強者と弱者とはそれほど簡単に分けられるものではない。それはそうであるが、しかし問題は「女性やLGBTが弱者として多様性を擁護することこそが強者にとって都合が良い」ことにある。
 
たとえば先の選挙で立憲民主党が見当違いなキャンペーンを展開し選挙で惨敗したのがそうだ。女性やLGBTの権利、選択的夫婦別姓といった弱者とマイノリティーに振りきれた政治主張を展開した結果、現実の格差=経済政策での論争にはならず自民党という強者に都合が良い選挙戦となった。弱者を保護することが大事だということを言い過ぎると、弱者と強者の対立戦争に政治が回収されてしまうわけだ。実際、「自民党を支持しているわけではないが自民に入れた」という有権者はかなり多い。消極的自民支持で「野党よりも比較的ましであるため自民党に入れた」という投票心理はかなり一般的なものだ。こうした投票しかできない政治をつくっている価値観こそが「弱者を強者にとって有用な仮想敵とする、しても良いとする多様性」であるのだ。
多様性により「過度な属性化・物語化」が進行すると弱者と強者に分断されるため政治にあっても「弱者の物語に振りきれた立憲民主党」と「族議員既得権益で固めた強者の物語を持つ自民党」に政治が二分された。多様性のような言説ばかりが言われるようになれば弱者と強者しか政治性を持ちえないのが今の政治風景なのである。多様性が支配的になればなるほど「多様性に適う弱者」に政治的視点が集中し、普通の市民が不可視化されていってしまう。
「人間関係や物語を過度に政治に持ちこまず能力がある人間が立候補してほしいという普通の意見」は「多様性社会」にとってプライオリティーが低い。プライオリティーが低いとは誰も共感しないということであり、ゆえに政治的なイシューにはならないが、しかし政治において本当に大切なことはまさに普通のことのはずだ。
普通に統計を処理する、普通に病床を拡大する、普通に政治責任を取る、普通に裁判に応じる、普通に再分配する、普通に外国と交渉するなど。
強者の強者性にあぐらをかいてきた自民党にあって対立軸となるのは本来この「普通の政治」であろう。しかしながらそうはならない。強者の物語=自民党世襲議員などに対抗するためにこちら側も弱者の物語を武器に政治を行うのが多様性により分断された世界であるからだ。
多様性が敷衍した世界にあっては「まず弱者を救う」ことが優先される。しかし弱者を救うという理念こそがまさに強者にとって都合が良い。リベラルの限界とも言えるけれど、昨今の政治風景は「多様性という袋小路」に陥っている。弱者のための政治というのも結構なことだけれど、真に弱者を救うのは「普通の政治」「能力のある政治」ではないだろうか。
 
経済においても多様性の弊害は存在する。SDGsなどを念頭に脱成長論が話題で資本主義は限界と言われることが多い昨今ではあるが、妥当な経済政策を行い、最低賃金をひきあげ、労働者から搾取するような企業には退場していただくなど「普通の資本主義」で救える人々はまだ数多くいるはずである。しかし多様性≒新自由主義により「自由な強者」が経済を動かすようになると「普通の経済」すらまともにできなくなる。喫緊の例で言えば、最低賃金をひきあげることができないので外国人労働者技能実習生という名目で雇い低賃金で働かせるというのがそうだ。人に働かせるというこれまでの産業構造を温存することにより機械化やシステム化が遅れる。機械化やシステム化が遅れれば企業の生産性は向上せず、グローバル市場において後塵をはいすることになりマクロ経済はダメージを受ける。そのダメージは国民生活にそのまま直結することになる。経済学的には「底辺への競争」と呼ばれるものであるがグローバルな労働市場にあって先進国の労働者は後進国の労働者と競争させられることになり、最低賃金後進国に均されていく。それをせき止め自国民の経済、つまり財産を守るのが憲法に書かれている本来の政治の役割であるはずだが、政治が守っているのは株価だけなのだからほとんど冗談のようにしか思えない始末だ。
弱い企業を守るという「多様性的救済」が実質的には労働者に底辺への競争をうながし普通の個人の生活をも困窮させ新しい弱者をつくる。そうした構造(強者の専断的な振る舞い)をつくっているのが弱者と強者を分断する多様性という価値観である。
佐々木さんの言説を援用すれば「Cという価値観を挿入した結果A(強者)とB(弱者)の心理的距離が離れ、D(外国人労働者)とB(自国民の弱者)を同一視する」状況を生み出してきた。それがゆえん多様性の経済的な側面であり、グローバリズムと呼ばれるものの正体であろう。
全員多様な同じ人間であるという言説は現実的には後進国の労働者と同じ待遇で自国民を働かせることを正当化する。それが新自由主義経済なのだ。自由な競争社会にあって強者が勝つのは自明であり、自由な労働力の調達という点で自国民も外国人もフラットに評価するのが多様性の「現実的帰結」なのである。
こうした状況にあっても弱者が弱者としてふるまっている限り社会の権力構造が変わることはない。多様性を絶対の価値基準だと認め続ける限り、現実にはA(強者)がB、C、Dを並列に弱者として扱う専断的振る舞いを許し続けることになる。強者にとってはそれでもかまわないのだ。今のままの生活を続けられればそれで良い。それが強者がキャスティングボードを握る今の日本経済であり、僕達は20年間ずっと「強者が今のままの経済を続けていくこと」を目的に経済を動かしてきた・・・いや、動かさないできた。B(適正な労働者)が駄目ならC(派遣労働者)を、Cが駄目ならD(外国人労働者)を、といった具合に今の経済をそのまま維持させる。経済も雇用も最低賃金も物価もなにもかも動かさない。その証拠が20年間変わることがない実質賃金なのである。
 
 
 
また、多様性による弊害は恋愛にも影響している。多様性は弱者と強者に社会を二分する価値観であり過度な属性化と物語化を引き起こす、ということは先ほど書いた通りであるが、こうした構造は昨今しきりに言われている恋愛格差の問題にも影を落としている。
自由恋愛は強者男性と強者女性のマッチングを促し、弱者は弱者として分断される。冒頭で書いた通り、婚姻が担っていた家庭内の格差解消といった社会的役割は消え、自由恋愛の現場にあっては強者同士がマッチングするようになった。一方、弱者は強者と結婚することを望む。しかしながら強者は強者同士でマッチングするため、弱者が強者と結婚するには職場など限られた場所で射止めるしかない。それ以外の「普通の男女」は多様な生き方という名目に慰められ、現実的孤独を抱え、生きている。それが今起きていることなのだろう。男性だって弱者女性を養いたくはないし、女性だって弱者男性を養いたくない。自由に恋愛して良いとなればそうなるのは自明であり、結果として強者+強者のパートナーが増え格差は広がっていく。
昔は女性が専業主婦という社会的なモデルがあったため、自由な欲望に制限がかかっていたのだろう。男性だって性よりも愛よりも婚姻といった「責任の内」にあり、結婚して一人前みたいな差別的発言を言われたと耳にする。その不自由を批判するのは簡単であるが、しかしその不自由さこそが全体の最適化を生み出し一億総中流社会を生み出してきたという「功の側面」もあったのではないだろうか。翻るに現在、多様性によりあらゆる価値観が並列化された結果「普通さ、スタンダード」は消滅し、誰もが「ベタベタの自由恋愛」に晒されざるを得なくなった。多様な恋愛の現場にあって恋愛のスタンダードは存在できなくなったのだ。
 
もちろん自由恋愛も女性の社会進出も良い事ではある。しかしながら昔の人がそんな単純な事にすら気づかないほど愚かだったのだろうか、ということは考えるべきだろう。自由や多様性という理念により一点突破してきたのが現代であるが、昔の人だって自由が至上の価値観であることはわかっていたはずだ。それでもなお守るべき社会のサステナビリティ―、国力というものがあるからこそ標準世帯という「普遍的価値観」を軸に社会をつくっていたと見ることもできる。その普遍的価値観が差別を生み、女性を虐げてきたという側面は事実であり、批判されてしかるべきであるものの、普遍性から逸脱する自由は昔だってあったはずだ。それは今僕達が信じている自由とは質や重みが違うものかもしれないが、それでも自由はあったのだと言うこともできる。
「自由にやりたい人はそうすればいい、しかし社会はある種の普遍性のもとに運営していく」というダブルスタンダードこそがむしろ社会を持続させる価値観だったのではないだろうか。もちろんそんなダブルスタンダードなど必要ないと言うのであればそれでもかまわない。しかしいまやその是非について「論じることさえできなくなっている」。それだけはおかしなことだと断言できる。
 
「自由に一元化された世界」になるとこうしたダブルスタンダードは許されなくなりみなが自由に生きていかなければならなくなった。僕達は自由に生きていける、のではない。自由に生きて「いかなければならない」のだ。子供のころからそう教えられた。やりたいことをやりなさい。自由に生きなさいなどなど。そうした自由の濁流の中で多様でバラバラになった僕達に何が起きたかと言えば「属性化」である。多様な個人を包摂するという社会からのアナウンスメントに応じる形で僕達は自らの属性を開陳する。男性は男性、女性は女性、トランスジェンダートランスジェンダーであると。社会的強者である、社会的弱者であるなど余計なことまで求められたりする。
しかし長年思っていることだが、属性と言っても男性と女性はそこまで明確に切り取ることができるのだろうかと思うことがある。もちろん男性と女性では生物学的には明らかに違いがあり、染色体から体の構造まで違ったりするわけだが、しかし社会的な側面から言えば「重なっている」というのが実感である。僕は男性であるが同時に女性でもある、というと奇妙に響くかもしれないが多くの人もそうなのではないだろうか。
その混在にこそ本来、差別を脱する鍵があるように思う。しかしながら多様性により属性化された世界になると女性が言うことは女性の意見として取り上げられ、女性の権利を守るということまで堂々と言われたりする。そこになんとも言えない気持ち悪さがある。「あなたは女性であるけど男性でもありますよねという批判」がもはや機能しないのだ。
佐々木さんの言説を再度援用すればAとBとCはそれぞれグラデーションによりお互いがお互いに干渉する存在で、同居する存在であったはずだが、いまや女性の発言・権利といった具合にすべてが属性化されていく傾向にある。
これも多様性の仕業であるように思う。つまりこうだ。多様性は挿入の概念であり、男性と女性の間にLGBTという属性を入れると男性と女性の距離が離れ「重ならなくなる」。LGBTだけでなく、ポリアモリーでもペドフィリアでもなんでもかまわないが、性が多様になるとはつまるところ男性も女性もひとつの性に過ぎなくなるということだ。
ありとあらゆる性を挿入すれば社会はそれこそLGBTを意味する虹色に見えるかもしれない。しかし虹色が綺麗だと思えば思うほど僕達はそれを「混ぜたくなくなる」のである。それが女性は女性として発言し、男性は男性として発言するような「混ざらない言論」をも生み出しているような、そんな感覚があるのだ。
もちろんこのような言説は言葉遊びに過ぎないかもしれない。しかし昨今の「多様に属性化された言説」を見ていると意外と的を外していないのではないかとも思っている。
 
いろいろな属性が混ざり合った灰色より多様に属性分けされた虹色のほうが綺麗。実のところ単にそれだけだったりするのではないだろうか。
クリスマスイブに飾られるイルミネーションの鮮やかさと同じように、極彩色に振りきれた「多様性という幻想」が現実に蓋をしている。そんな身も蓋もない価値観に僕達は囚われていたりはしないだろうか。
「色を好む」というのもけだし人間的ではあるのだけれど・・・でも、本当にそれで良かったのだろうか

本の魔力と「みたいなもん」騒動

某書評家が某tiktokerを批判して某tiktokerが活動停止してしまった件から某書評家がネットのおもちゃみたいになっているけれど、どうにも釈然としないものがある。

書評家という職業柄、本を解説紹介することには一定の矜持があるのだろうけどそれが悪い形で出てしまったのが今回なのかなと。

僕も多少は本を読む人間だけれど本が特別だとはあまり思っていなくて単に過去の人にリーチできるのが条件的に本だけだと、意識してそう捉えている。昔は映像や音声を残すことができなかったため、本が表現する媒体だった。けれど今やそうではなくYoutubeinstagramtiktok「みたいなもん」でも表現が可能で、大きな話で言えば表現方法の軋轢が生じる時代にあるのだろうなと。たぶん将来的にはヒカキンが歴史の偉人として取り上げられたりするんじゃないかな。聖人化されて教材になり、人格者として祭り上げられてもおかしくないように思う。Youtube「みたいなもん」で活動しているからヒカキンを知的だと見る向きはいまのところあまりないけれど、人格的な完成度で言えばどんな本よりも具体的な参考になるのがヒカキンだったりする。

あるいはゲームなんかもそうで、昔はゲームは一日一時間までなんて言われたものだけどこれだけゲームが市民権を得ると香川県のように規制する側が少数派になっている。当然ながらゲームから学ぶことも多いし、度を越さない限りは知的な活動だと十分に言えるであろう。

 

本もそうした表現方法のひとつに過ぎない、と言うと怒られそうだけど本はあまりにも聖域化しすぎている節があるように思う。

本を読むことはとても貴重な体験でもあるし、歴史の偉人達が残してきた言葉のほうがふらふらと平和に生きている僕たちが考えるより真に迫る言葉が多いのは間違いない。生きている人より亡くなられた人のほうが多いのだから当たり前ではあるけれど、しかしだからこそ本にたいして「余計な権威」が付与されてしまったのかなとも思う。

本はどこか権威的なんですよね。それこそ芥川賞から直木賞まで受賞した作品や著者を知的に見る傾向があるけれど、読んでみれば僕たちの日常と地続きなことが多く、なにも特別ではなかったりする。もちろん数多くの作品の中から賞に選ばれるだけあって内容も筆致も凡人のそれではないし、「僕たちと変わらない」なんて言うのはおこがましいわけだけれど、しかしこのおこがましいという感情が行き過ぎると本にたいして権威を付与し、あるいは内面化さえし、はてには本を特別視するような妄執を抱いてしまうのではないだろうか。

 

文章を書くことはひとつの専門性なだけであって他の媒体で活動してる人と比較して知的だと認定するのは、たぶん違う。表現方法の違いなだけで、本や文章が知であるというのは本しか知的な表現方法がなかった前時代的な価値観に過ぎない。

ウィトゲンシュタインとかが現代に生きてればプログラミングのほうに興味が向いてそうだし、坂口安吾が生きてればphaさんみたいになってそうだし、太宰治は・・・あんまり変わらなそうではあるけどいずれにせよ本は表現方法のひとつに過ぎない。そのように思う。

 

某書評家の方はたぶんそうした本の権威を内面化しすぎてしまったんじゃないかな。本を愛してれば愛してるほど本を特別なものとしてとらえ、人間の叡智とまで思うようになれば、tiktokを「みたいなもん」扱いしてしまう。自らが長年仕事としてきた書評がtiktokの30秒紹介動画に置き換わるのが嘆かわしいと感じるのは本が権威だというバイアスがかかっているのではないだろうか。そういう本を特別視する感覚はよくわかるのだけど、たぶんそれは間違っている。

 

本だけでなく自分の仕事がいらなくなる喪失感や嘆きみたいな感情は今の時代、ものすごく幅広い職種にあって、職人さんが一週間かけてつくるものが3Dプリンターで一瞬で再現されたり、書記もすべて音声入力に置き換わり、機械化、自動化、マクロを組むなどすべてが効率化されていく時代にある。そうした効率化とは対極にあるのが本を読む・書くという行為で、すべてが高速で流れていく時代にあえて遅さに身をゆだねることに本を読むことの意義がある。某書評家の方もそのように考えているのだろうけど、それでも「遅さが大切」と言うのと「遅さが正しい」と言うのとでは違うんですよね。

たぶんそのへんが本が表現方法として生き残る分水嶺なんじゃないかな。僕のような怠惰な人間がなぜ本を読んでいるかと言えば、本にしか遅さがないからで、Youtubetiktok「みたいなもん」では代替できないものが本にあるからだ。

 

しかしそれもまた変な話で、たぶん現代社会の大量生産大量消費の速さがあるからこそ「遅さにやつす」ことができる。現代的な速さと本の遅さは決して相反するものではない。本が手元に届くまでを考えても印刷会社の輪転機や折機、効率化された流通網がなければ本が読者に届くことはない。しかし本はそうした具体的な現実感をどこかに吹っ飛ばしてしまう魔力がある。「本がすべて」「本が智の頂である」みたいな感覚はすごくよくわかったりする。その魔力にとりつかれると、本の化身みたいになってしまい、それが本の権威に取りつかれるということなのだろう。そのはてにtiktokなどを「みたいなもん」扱いしてしまう。

 

注意しなければいけないのはもうすでに多くのところで言われているように「単に違う」ということだけだろう。書評と紹介動画が違うのはいわずもがな、人それぞれ本にたいする態度も違うし、本を読んだ時の感想も違う。本を紹介する方法も違うし、本をどのように捉えているのかも違う。僕のように適当に読んでる人もいれば、仕事としてガチの書評を書いてる人もいたりする。

本のような解釈が分散するものに関しては同じ本でも人によって読み方がまったく違うことがある。そうした解釈の相違にこそ本の面白さがあるように思う。本にはいろんな読み方がある、自分は自分の読み方をしても良いからこそ安心して本に没頭できる。論文ではないんだから本を読んだ時の感想に整合性など必要ないのである。それがいつのまにか整合性にとらわれ、本が自由ではなくなり、ちゃんと読めみたいな権威まみれのものになってしまった。

某書評家がtiktokを批判したのはようするに「ちゃんと本を読んでちゃんと紹介しろ」と言っているのだろうけど、そうした意固地さが逆説的に読者の自由を奪い、本を聖域化し、権威として崇め奉るだけのものにし、出版不況と言われる状況を作り上げてしまったのではないだろうか。そのように思う。

本「みたいなもん」は手にとって読めばなんでもいい。個人的にはそう思う。tiktokでもかまわないだろう。読めば必ずなにか思うところがある。誰かが本気で書いたものには魔力が宿る。

とはいえそういう魔力に依存した悪本があるのも事実で、だからこそ書評家が必要とされてもいるのではないだろうか。

インターネットから離れて見たインターネット

デジタル・デトックスというわけでもないけれど、すこしインターネットから離れてました。

ブログも書かずツイッターはてブもスマートニュースもニュースピックスも見ていませんでした。コロナが落ち着いたこともあり良い機会かなと3週間ほどネットを見ない生活をしていたのですが、戻ってきて感じたことをすこし書いてみます。

 

インターネットを見ていても見ていなくても生活は何も変わらないのだけど、いざネットから離れてみるとネットに書かれていることが「なんのことかよくわからなくなる」という感覚を覚えた。

 

インターネットに書いている人も所詮人間で、人間である限りコミュニケーションを取る時には文脈を前提に言葉を発しているのだけど、いったんそこから離れると文脈の連続性を失い、わけがわからなくなってしまう。温泉ムスメの件に関してもフェミニストであればそう言うだろうという予測のもとにこちら側が受容している側面がすくなからずあり、またフェミニストがなにか騒いでいるという連続性の内にそれは議題として成立しているのであろう。しかしいざその連続性から離れて見るとほとんど何を言っているのかわからなくなる。連続性を失い現実のセンテンスに開いた瞬間に妥当性を失うというか。「フェミニストはこういう人達だからこういう事を言うだろう」というネット上の背景が失われた瞬間、ツイフェミはインターネットで騒いでファンネルに電凸させる迷惑系ツイッタラーに見えてしまうのだ。それが正しい認知なのかはよくわからないし、フェミニストともネットの連続性の上で議論していくことが良い事だと思う一方、議論を進めれば進めるほど活動や言論は文脈に依存していくことになり、現実の市民感覚とは乖離していくのではないだろうか。

ネット上の文脈が深まれば深まるほど、文脈を知らない人にとってのフェミニズムは奇異なものに見えてしまう。ジェンダーギャップ指数や女性の社会進出の問題、女性政治家比率という側面を知っている人から見ればフェミニストがある程度過激なことを言うのも「文脈としては理解できる」。表現規制と自由の話に関しても彼女達が表現の自由に反対する人々であることを(賛否はともかく)了解している。主張の是非はともかくそういう物語の中にいる人だという認識がある。それを先鋭化と言って批判することはできるものの、フェミニストがそういう人達になった背景を知っているのと知らないのとではフェミニストに対する視座は違うものになる。こうした問題はフェミニズムに限ったことではない。何を主張するにせよ僕達は文脈に依存し過ぎているし、それを現実の生活に卸すにはセンテンスに開く必要がある。しかしこのセンテンスに開くという行為をほとんどせず、単発的かつ連続的な文脈の中でのみ行われているのがインターネット上の政治風景なのである。

連続的ゆえに単発的な意見が通用する。しかし単発的ゆえに連続性を失った人にはわけがわからなく見える。インターネットから離れ、連続性から距離を取るとその単発性の奇異さが浮き彫りになってくるのだ。連続性から離れごく普通に捉えた時、絵が性的であるとしてそれの何が問題なのか、よくわからなくなるのだ。

 

関連して言えばネット上では文脈を読めと言われることがあるけれど、今問題となっているのはおそらくそうではない。むしろ逆だ。インターネットは文脈に依存し過ぎている。読者やフォロワーを想定し、相手がこう思ってくれるだろうという予測と期待のもとにみな何かを書く。そうした文脈に依存した言葉であればツイッターで充分であるけれど、文脈を理解しておらず属人性を考慮しない人々がどう思うかという客観性が決定的に失われてしまったのがここ数年の政治風景なのではないだろうか。みなそれぞれの文脈の中で主張を展開する。事前に了解されている文脈の中であればそれこそハッシュタグひとつで言葉は足りるけれど、そうではない外集団にリーチしようとした時にはまずその文脈を「開かなければいけない」のであろう。

 

おそらく僕達が考える以上に文脈は厄介なものである。一言で言えばネット上で目にする意見の多くは文脈「で」考えているのではなく文脈「が」考えているものだからだ。読者数やフォロワーが増えれば増えるほどその人が言うべきことは読者に期待され、あるいは限定されかねない。温泉ムスメが性的で女性の権利を軽んじているという主張をしていた仁藤さんにしても、フェミニズム的にアウトなものであるというフィルター「が」温泉ムスメを批判していると見たほうが正確ではないだろうか。ツイッターでフォロワーを獲得し、バズやいいねといった指標に晒されれば活動それ自体が目的化し、個人の思想の範疇を飛び越えてフォロワーと同化してしまいかねないのがSNSの最も恐ろしいところであろう。そもそもが何万という他人の期待に応じられるほど人は完璧ではない。もちろんそうしたインターネットの構造から自由な人もたくさんいるけれど、普通の市民がそうした期待に応えるためには「役割」を演じるしかない。役割とはつまり文脈を読み、その文脈に適応してしまうということだ。SNSが一般に開かれれば開かれるほど、そうした役割を強制される文脈は強くなるし、あるいはそれが本当の自分であると錯覚してもまったく不思議ではない。この意味で個人という単位が消滅し、主語が迷子になっているのが今の言論風景であるとも言える。皆が文脈に適応し、役割を演じているとはつまり誰が何を考えているのか本当のところよくわからなくなるということである。インターネットには「誰もそんなこと本気で考えていないだろう」といった疑似性、虚仮さ、違和感が常にあるのだ。

plagmaticjam.hatenablog.com

 

一般に他人(フォロワー)を意識し過ぎると良い意味でも悪い意味でも自由な考えからは遠ざかることになる。自分より他人を大事にするといった考えは称賛されるべきものでもあるけれど、フォロワーは他人であると同時に「数」でしかないことも忘れてはならないように思う。現実とSNSは違う。そう考えるべきであろう。にもかかわらず現実のようにSNSを使うことが良いことだと言われているのは違和感がある。現実のような配慮をSNSでも行えば巨大に膨れ上がった顔が見えないフォロワーにたいしては迎合するしかなくなるはずだからだ。フォロワーにどんな人がいるのかわからないという無限の配慮をし続ければあらゆる主張を行うことは不可能になり、批判なき政治が支配的になる。一方、逆の意味では読者が無限の配慮をしてくれるだろうと期待し、文脈に依存した言葉だけを言うエコーチェンバーをも生み出すことになる。

他人を真面目に考えると最終的には「離れるか迎合するか」という二極構造になる。それがインターネットの最も危ういところに見える。仲間か敵か、右か左かで考えている人もようするに「迎合するかそうでないか」で人を見ている点でインターネットの構造的問題なのだろう。たぶんインターネット上の「政治人」はみな自分の考えなど持っていない。現実の生活にかえれば絵が性的であることがそれほど重大な問題ではないことはすぐに理解できる。議論のための議論に過ぎない。みなネット上の適応によってフォロワーに迎合しているだけで、アイヒマン的(役人的)な役割を大真面目に演じているだけだったりするのだろう。もちろんアイヒマンが責任を問われたように、過激な発言や誹謗中傷も責任を問われ批判されるべきであるけれど、アイヒマンを断罪(キャンセル)したところでたいした意味はないのである。インターネットの文脈が温存され続ける限り、フォロワーはまた別の誰かを見つけ、役割を演じるよう「いいね」を押し、次のアイヒマンを生み出すことになる。そういった「構造が先」にあるように思う。

 


そもそもインターネットには現実のような表情や雰囲気もない。ただ言葉だけが流れていく空間で現実と同じように振る舞うことは条件的に不可能なのだ。それはみな日々の生活を振り返ればよくわかることではないだろうか。たとえばためいき混じりに愚痴を言った時、現実には表情などから「本当はそんなこと言っていない」と経験的にわかるものだけど、そうした愚痴にさえガチの反論が返ってくるのがインターネットである。そうやってすべての主張は「真面目に」受け取られることになる。言葉は真面目さに抗うことができない、というよりも言葉をネタ化するには技術が必要で、その技術は現実のものとはまったく違うのだと思う。それを駆使できるのは限られた人(ヨッピーさんやフミコフミオさんなど)だけで、それ以外の僕を含めた多くの人は言葉の外に出ることができない。たぶん多くの人はそもそも「インターネットに向いていない」。使い方とかリテラシーとかそういうレベルの話ではなく単に向いていないのだと思う。僕達はインターネットの使い方を知っているようで何も知らない。政治的なレベルで言えばインターネットはなくなったほうが良いとすら思うようになってしまった。僕がインターネットから離れていたのはそのような理由でもあった。

 

こうした考え方から見ると昨今言われている「ネットが現実と同一化した」というのは半分本当で半分嘘ではないかと考えることができる。つまりインターネットのような言葉だけがやりとりされる空間においてはコミュニケーションが言葉に限定されるため、みな真面目にならざるを得ないし、真面目に応答せざるを得ないのだろう、言葉は言葉として見れば言葉でしかないわけで、真面目に言葉を紡げば紡ぐほど、僕らは言葉の外に出ることができなくなる。そうしたネット空間の真面目さを逆輸入しているのが現実と考えることもできる。ネット上の真面目さは言葉でしかやりとりできないといった条件的なものであるけれど、ネットの影響力が強くなればなるほどその条件を現実にも流用することになり、現実も真面目なものに変化していった。コロナ禍にあっても賞賛されていたのは真面目な医療従事者であり、真面目な政治家であり、真面目な国民であった。波物語を開催していたような不真面目な国民はバッシングの対象となっていた。

さらに言えばこうした真面目さは資本主義的な意味でも都合が良い。労働者が真面目になればなるほどサービスの質はあがるという循環が発生する。すなわちネットと現実は共依存のような関係にあり、お互いがお互いに真面目さを供給しあっているのである。それを市場が加速させるという構図だ。たとえば政治家や官僚がスキャンダルを起こしてニュースになるという現実があればそれをネット上で議論することにより「真面目に」そのニュースは消費され、その騒動を報じることによりメディアがPVを稼ぐ。そうした真面目な議論を現実へと転化することで現実も真面目なものに変化していったのであろう。現実とネットの情報、つまりインフォメーションが爆縮し、お互いがお互いを媒介とし再生産している今の状態は一言で言えばインフォームドリアリズムとでも呼べるのではないかと思う。情報により文脈が形成され、それを市場に卸し、現実に再生産された文脈をネット上に返していく。それをまた現実へと流用していく。

そのような状況が強くなればなるほどインフルエンサーは文脈にインフォームドされ、畜群たる我々小市民は情報にインフォームド(適応)するのが生存戦略と化した。それが後期情報化社会だと言える。

 

そのような循環の果てに生まれたのがポリコレに代表されるような「正しさ」であろう。禁煙ファシズムなどと言われていたのもずいぶん昔のことのように思うけれど、路上でタバコを吸うことすらできない「真面目さ」や「正しさ」がいつしか支配的になったのだ。無論その正しさは仮初めであるという批判も成り立つけれど、正しさが影響力を持っていることは事実であり、そうした真面目さをつくっていることにインターネットの構造的な問題があることはおよそ間違いない。
しかしながら僕達は実存として見ればそれほど真面目ではない。ある種の多義性のもとに物事を考えているし、矛盾を抱えていて当たり前の存在で、あるいはほとんどのことをどうでもいいとすら考えている。

みな偶然なにかを目にし、その「時(イデオロギー、恋愛、フォロワー、適応等)に張り付いているだけ」だったりする。

しかしインターネットはそうした「人の混沌、時間」をほとんど問題にせず、「書いたことのみ」を真面目に捉え、アーカイブを参照し、大真面目に議論している。そのような似非さがあるのだ。そしてその似非さを大真面目に捉える人々及び利用する人々が現実をも真面目なものに変えていくことになる。
つまるところある意味では現実だってインターネットとたいして変わりはしない。現実のほうが自由だというのはいまのところそうだと思うけれど、ネットが現実を塗り替えていき現実がネットに餌を与え続けるこの共犯関係をなんとかしないと現実もまたネットのように真面目なものへとインフォームドされていくことになる。事実として公共空間においてはもはや真面目な市民であり続ける必要があったりする。不真面目な振る舞いができるのはプライベートな空間だけで、単に「見つかっていないだけ」なのだ。なので別にインターネットから離れてもたいした意味はない。現実もネットもそこまで変わるものではない。というよりもこの真面目さに抗うことがむしろより現実的なのではないかと思う。

 

僕自身もかぎかっこつきだけど「真面目」な人間で、真面目さに取り込まれそうになることがあるけれど、だからこそ真面目さがいかに危ういかを言葉にできるのではないかと、そんなふうに思い、またブログを書いている。このままやめてしまおうかとも一瞬考えたけれど、向いていないのであれば向いていないことを言語化できるのではと思い、留まった感じである。
コロナが落ち着いたので飲み会や旅行に行ったりというのが主な理由でもあるのですけどね。以前のような更新ペースにはならないと思いますがとりあえず(というわりには長すぎるけれど)生存報告ということで以上です。