本の魔力と「みたいなもん」騒動
某書評家が某tiktokerを批判して某tiktokerが活動停止してしまった件から某書評家がネットのおもちゃみたいになっているけれど、どうにも釈然としないものがある。
書評家という職業柄、本を解説紹介することには一定の矜持があるのだろうけどそれが悪い形で出てしまったのが今回なのかなと。
僕も多少は本を読む人間だけれど本が特別だとはあまり思っていなくて単に過去の人にリーチできるのが条件的に本だけだと、意識してそう捉えている。昔は映像や音声を残すことができなかったため、本が表現する媒体だった。けれど今やそうではなくYoutubeやinstagramにtiktok「みたいなもん」でも表現が可能で、大きな話で言えば表現方法の軋轢が生じる時代にあるのだろうなと。たぶん将来的にはヒカキンが歴史の偉人として取り上げられたりするんじゃないかな。聖人化されて教材になり、人格者として祭り上げられてもおかしくないように思う。Youtube「みたいなもん」で活動しているからヒカキンを知的だと見る向きはいまのところあまりないけれど、人格的な完成度で言えばどんな本よりも具体的な参考になるのがヒカキンだったりする。
あるいはゲームなんかもそうで、昔はゲームは一日一時間までなんて言われたものだけどこれだけゲームが市民権を得ると香川県のように規制する側が少数派になっている。当然ながらゲームから学ぶことも多いし、度を越さない限りは知的な活動だと十分に言えるであろう。
本もそうした表現方法のひとつに過ぎない、と言うと怒られそうだけど本はあまりにも聖域化しすぎている節があるように思う。
本を読むことはとても貴重な体験でもあるし、歴史の偉人達が残してきた言葉のほうがふらふらと平和に生きている僕たちが考えるより真に迫る言葉が多いのは間違いない。生きている人より亡くなられた人のほうが多いのだから当たり前ではあるけれど、しかしだからこそ本にたいして「余計な権威」が付与されてしまったのかなとも思う。
本はどこか権威的なんですよね。それこそ芥川賞から直木賞まで受賞した作品や著者を知的に見る傾向があるけれど、読んでみれば僕たちの日常と地続きなことが多く、なにも特別ではなかったりする。もちろん数多くの作品の中から賞に選ばれるだけあって内容も筆致も凡人のそれではないし、「僕たちと変わらない」なんて言うのはおこがましいわけだけれど、しかしこのおこがましいという感情が行き過ぎると本にたいして権威を付与し、あるいは内面化さえし、はてには本を特別視するような妄執を抱いてしまうのではないだろうか。
文章を書くことはひとつの専門性なだけであって他の媒体で活動してる人と比較して知的だと認定するのは、たぶん違う。表現方法の違いなだけで、本や文章が知であるというのは本しか知的な表現方法がなかった前時代的な価値観に過ぎない。
ウィトゲンシュタインとかが現代に生きてればプログラミングのほうに興味が向いてそうだし、坂口安吾が生きてればphaさんみたいになってそうだし、太宰治は・・・あんまり変わらなそうではあるけどいずれにせよ本は表現方法のひとつに過ぎない。そのように思う。
某書評家の方はたぶんそうした本の権威を内面化しすぎてしまったんじゃないかな。本を愛してれば愛してるほど本を特別なものとしてとらえ、人間の叡智とまで思うようになれば、tiktokを「みたいなもん」扱いしてしまう。自らが長年仕事としてきた書評がtiktokの30秒紹介動画に置き換わるのが嘆かわしいと感じるのは本が権威だというバイアスがかかっているのではないだろうか。そういう本を特別視する感覚はよくわかるのだけど、たぶんそれは間違っている。
本だけでなく自分の仕事がいらなくなる喪失感や嘆きみたいな感情は今の時代、ものすごく幅広い職種にあって、職人さんが一週間かけてつくるものが3Dプリンターで一瞬で再現されたり、書記もすべて音声入力に置き換わり、機械化、自動化、マクロを組むなどすべてが効率化されていく時代にある。そうした効率化とは対極にあるのが本を読む・書くという行為で、すべてが高速で流れていく時代にあえて遅さに身をゆだねることに本を読むことの意義がある。某書評家の方もそのように考えているのだろうけど、それでも「遅さが大切」と言うのと「遅さが正しい」と言うのとでは違うんですよね。
たぶんそのへんが本が表現方法として生き残る分水嶺なんじゃないかな。僕のような怠惰な人間がなぜ本を読んでいるかと言えば、本にしか遅さがないからで、Youtubeやtiktok「みたいなもん」では代替できないものが本にあるからだ。
しかしそれもまた変な話で、たぶん現代社会の大量生産大量消費の速さがあるからこそ「遅さにやつす」ことができる。現代的な速さと本の遅さは決して相反するものではない。本が手元に届くまでを考えても印刷会社の輪転機や折機、効率化された流通網がなければ本が読者に届くことはない。しかし本はそうした具体的な現実感をどこかに吹っ飛ばしてしまう魔力がある。「本がすべて」「本が智の頂である」みたいな感覚はすごくよくわかったりする。その魔力にとりつかれると、本の化身みたいになってしまい、それが本の権威に取りつかれるということなのだろう。そのはてにtiktokなどを「みたいなもん」扱いしてしまう。
注意しなければいけないのはもうすでに多くのところで言われているように「単に違う」ということだけだろう。書評と紹介動画が違うのはいわずもがな、人それぞれ本にたいする態度も違うし、本を読んだ時の感想も違う。本を紹介する方法も違うし、本をどのように捉えているのかも違う。僕のように適当に読んでる人もいれば、仕事としてガチの書評を書いてる人もいたりする。
本のような解釈が分散するものに関しては同じ本でも人によって読み方がまったく違うことがある。そうした解釈の相違にこそ本の面白さがあるように思う。本にはいろんな読み方がある、自分は自分の読み方をしても良いからこそ安心して本に没頭できる。論文ではないんだから本を読んだ時の感想に整合性など必要ないのである。それがいつのまにか整合性にとらわれ、本が自由ではなくなり、ちゃんと読めみたいな権威まみれのものになってしまった。
某書評家がtiktokを批判したのはようするに「ちゃんと本を読んでちゃんと紹介しろ」と言っているのだろうけど、そうした意固地さが逆説的に読者の自由を奪い、本を聖域化し、権威として崇め奉るだけのものにし、出版不況と言われる状況を作り上げてしまったのではないだろうか。そのように思う。
本「みたいなもん」は手にとって読めばなんでもいい。個人的にはそう思う。tiktokでもかまわないだろう。読めば必ずなにか思うところがある。誰かが本気で書いたものには魔力が宿る。
とはいえそういう魔力に依存した悪本があるのも事実で、だからこそ書評家が必要とされてもいるのではないだろうか。
インターネットから離れて見たインターネット
デジタル・デトックスというわけでもないけれど、すこしインターネットから離れてました。
ブログも書かずツイッターもはてブもスマートニュースもニュースピックスも見ていませんでした。コロナが落ち着いたこともあり良い機会かなと3週間ほどネットを見ない生活をしていたのですが、戻ってきて感じたことをすこし書いてみます。
インターネットを見ていても見ていなくても生活は何も変わらないのだけど、いざネットから離れてみるとネットに書かれていることが「なんのことかよくわからなくなる」という感覚を覚えた。
インターネットに書いている人も所詮人間で、人間である限りコミュニケーションを取る時には文脈を前提に言葉を発しているのだけど、いったんそこから離れると文脈の連続性を失い、わけがわからなくなってしまう。温泉ムスメの件に関してもフェミニストであればそう言うだろうという予測のもとにこちら側が受容している側面がすくなからずあり、またフェミニストがなにか騒いでいるという連続性の内にそれは議題として成立しているのであろう。しかしいざその連続性から離れて見るとほとんど何を言っているのかわからなくなる。連続性を失い現実のセンテンスに開いた瞬間に妥当性を失うというか。「フェミニストはこういう人達だからこういう事を言うだろう」というネット上の背景が失われた瞬間、ツイフェミはインターネットで騒いでファンネルに電凸させる迷惑系ツイッタラーに見えてしまうのだ。それが正しい認知なのかはよくわからないし、フェミニストともネットの連続性の上で議論していくことが良い事だと思う一方、議論を進めれば進めるほど活動や言論は文脈に依存していくことになり、現実の市民感覚とは乖離していくのではないだろうか。
ネット上の文脈が深まれば深まるほど、文脈を知らない人にとってのフェミニズムは奇異なものに見えてしまう。ジェンダーギャップ指数や女性の社会進出の問題、女性政治家比率という側面を知っている人から見ればフェミニストがある程度過激なことを言うのも「文脈としては理解できる」。表現規制と自由の話に関しても彼女達が表現の自由に反対する人々であることを(賛否はともかく)了解している。主張の是非はともかくそういう物語の中にいる人だという認識がある。それを先鋭化と言って批判することはできるものの、フェミニストがそういう人達になった背景を知っているのと知らないのとではフェミニストに対する視座は違うものになる。こうした問題はフェミニズムに限ったことではない。何を主張するにせよ僕達は文脈に依存し過ぎているし、それを現実の生活に卸すにはセンテンスに開く必要がある。しかしこのセンテンスに開くという行為をほとんどせず、単発的かつ連続的な文脈の中でのみ行われているのがインターネット上の政治風景なのである。
連続的ゆえに単発的な意見が通用する。しかし単発的ゆえに連続性を失った人にはわけがわからなく見える。インターネットから離れ、連続性から距離を取るとその単発性の奇異さが浮き彫りになってくるのだ。連続性から離れごく普通に捉えた時、絵が性的であるとしてそれの何が問題なのか、よくわからなくなるのだ。
関連して言えばネット上では文脈を読めと言われることがあるけれど、今問題となっているのはおそらくそうではない。むしろ逆だ。インターネットは文脈に依存し過ぎている。読者やフォロワーを想定し、相手がこう思ってくれるだろうという予測と期待のもとにみな何かを書く。そうした文脈に依存した言葉であればツイッターで充分であるけれど、文脈を理解しておらず属人性を考慮しない人々がどう思うかという客観性が決定的に失われてしまったのがここ数年の政治風景なのではないだろうか。みなそれぞれの文脈の中で主張を展開する。事前に了解されている文脈の中であればそれこそハッシュタグひとつで言葉は足りるけれど、そうではない外集団にリーチしようとした時にはまずその文脈を「開かなければいけない」のであろう。
おそらく僕達が考える以上に文脈は厄介なものである。一言で言えばネット上で目にする意見の多くは文脈「で」考えているのではなく文脈「が」考えているものだからだ。読者数やフォロワーが増えれば増えるほどその人が言うべきことは読者に期待され、あるいは限定されかねない。温泉ムスメが性的で女性の権利を軽んじているという主張をしていた仁藤さんにしても、フェミニズム的にアウトなものであるというフィルター「が」温泉ムスメを批判していると見たほうが正確ではないだろうか。ツイッターでフォロワーを獲得し、バズやいいねといった指標に晒されれば活動それ自体が目的化し、個人の思想の範疇を飛び越えてフォロワーと同化してしまいかねないのがSNSの最も恐ろしいところであろう。そもそもが何万という他人の期待に応じられるほど人は完璧ではない。もちろんそうしたインターネットの構造から自由な人もたくさんいるけれど、普通の市民がそうした期待に応えるためには「役割」を演じるしかない。役割とはつまり文脈を読み、その文脈に適応してしまうということだ。SNSが一般に開かれれば開かれるほど、そうした役割を強制される文脈は強くなるし、あるいはそれが本当の自分であると錯覚してもまったく不思議ではない。この意味で個人という単位が消滅し、主語が迷子になっているのが今の言論風景であるとも言える。皆が文脈に適応し、役割を演じているとはつまり誰が何を考えているのか本当のところよくわからなくなるということである。インターネットには「誰もそんなこと本気で考えていないだろう」といった疑似性、虚仮さ、違和感が常にあるのだ。
一般に他人(フォロワー)を意識し過ぎると良い意味でも悪い意味でも自由な考えからは遠ざかることになる。自分より他人を大事にするといった考えは称賛されるべきものでもあるけれど、フォロワーは他人であると同時に「数」でしかないことも忘れてはならないように思う。現実とSNSは違う。そう考えるべきであろう。にもかかわらず現実のようにSNSを使うことが良いことだと言われているのは違和感がある。現実のような配慮をSNSでも行えば巨大に膨れ上がった顔が見えないフォロワーにたいしては迎合するしかなくなるはずだからだ。フォロワーにどんな人がいるのかわからないという無限の配慮をし続ければあらゆる主張を行うことは不可能になり、批判なき政治が支配的になる。一方、逆の意味では読者が無限の配慮をしてくれるだろうと期待し、文脈に依存した言葉だけを言うエコーチェンバーをも生み出すことになる。
他人を真面目に考えると最終的には「離れるか迎合するか」という二極構造になる。それがインターネットの最も危ういところに見える。仲間か敵か、右か左かで考えている人もようするに「迎合するかそうでないか」で人を見ている点でインターネットの構造的問題なのだろう。たぶんインターネット上の「政治人」はみな自分の考えなど持っていない。現実の生活にかえれば絵が性的であることがそれほど重大な問題ではないことはすぐに理解できる。議論のための議論に過ぎない。みなネット上の適応によってフォロワーに迎合しているだけで、アイヒマン的(役人的)な役割を大真面目に演じているだけだったりするのだろう。もちろんアイヒマンが責任を問われたように、過激な発言や誹謗中傷も責任を問われ批判されるべきであるけれど、アイヒマンを断罪(キャンセル)したところでたいした意味はないのである。インターネットの文脈が温存され続ける限り、フォロワーはまた別の誰かを見つけ、役割を演じるよう「いいね」を押し、次のアイヒマンを生み出すことになる。そういった「構造が先」にあるように思う。
そもそもインターネットには現実のような表情や雰囲気もない。ただ言葉だけが流れていく空間で現実と同じように振る舞うことは条件的に不可能なのだ。それはみな日々の生活を振り返ればよくわかることではないだろうか。たとえばためいき混じりに愚痴を言った時、現実には表情などから「本当はそんなこと言っていない」と経験的にわかるものだけど、そうした愚痴にさえガチの反論が返ってくるのがインターネットである。そうやってすべての主張は「真面目に」受け取られることになる。言葉は真面目さに抗うことができない、というよりも言葉をネタ化するには技術が必要で、その技術は現実のものとはまったく違うのだと思う。それを駆使できるのは限られた人(ヨッピーさんやフミコフミオさんなど)だけで、それ以外の僕を含めた多くの人は言葉の外に出ることができない。たぶん多くの人はそもそも「インターネットに向いていない」。使い方とかリテラシーとかそういうレベルの話ではなく単に向いていないのだと思う。僕達はインターネットの使い方を知っているようで何も知らない。政治的なレベルで言えばインターネットはなくなったほうが良いとすら思うようになってしまった。僕がインターネットから離れていたのはそのような理由でもあった。
こうした考え方から見ると昨今言われている「ネットが現実と同一化した」というのは半分本当で半分嘘ではないかと考えることができる。つまりインターネットのような言葉だけがやりとりされる空間においてはコミュニケーションが言葉に限定されるため、みな真面目にならざるを得ないし、真面目に応答せざるを得ないのだろう、言葉は言葉として見れば言葉でしかないわけで、真面目に言葉を紡げば紡ぐほど、僕らは言葉の外に出ることができなくなる。そうしたネット空間の真面目さを逆輸入しているのが現実と考えることもできる。ネット上の真面目さは言葉でしかやりとりできないといった条件的なものであるけれど、ネットの影響力が強くなればなるほどその条件を現実にも流用することになり、現実も真面目なものに変化していった。コロナ禍にあっても賞賛されていたのは真面目な医療従事者であり、真面目な政治家であり、真面目な国民であった。波物語を開催していたような不真面目な国民はバッシングの対象となっていた。
さらに言えばこうした真面目さは資本主義的な意味でも都合が良い。労働者が真面目になればなるほどサービスの質はあがるという循環が発生する。すなわちネットと現実は共依存のような関係にあり、お互いがお互いに真面目さを供給しあっているのである。それを市場が加速させるという構図だ。たとえば政治家や官僚がスキャンダルを起こしてニュースになるという現実があればそれをネット上で議論することにより「真面目に」そのニュースは消費され、その騒動を報じることによりメディアがPVを稼ぐ。そうした真面目な議論を現実へと転化することで現実も真面目なものに変化していったのであろう。現実とネットの情報、つまりインフォメーションが爆縮し、お互いがお互いを媒介とし再生産している今の状態は一言で言えばインフォームドリアリズムとでも呼べるのではないかと思う。情報により文脈が形成され、それを市場に卸し、現実に再生産された文脈をネット上に返していく。それをまた現実へと流用していく。
そのような状況が強くなればなるほどインフルエンサーは文脈にインフォームドされ、畜群たる我々小市民は情報にインフォームド(適応)するのが生存戦略と化した。それが後期情報化社会だと言える。
そのような循環の果てに生まれたのがポリコレに代表されるような「正しさ」であろう。禁煙ファシズムなどと言われていたのもずいぶん昔のことのように思うけれど、路上でタバコを吸うことすらできない「真面目さ」や「正しさ」がいつしか支配的になったのだ。無論その正しさは仮初めであるという批判も成り立つけれど、正しさが影響力を持っていることは事実であり、そうした真面目さをつくっていることにインターネットの構造的な問題があることはおよそ間違いない。
しかしながら僕達は実存として見ればそれほど真面目ではない。ある種の多義性のもとに物事を考えているし、矛盾を抱えていて当たり前の存在で、あるいはほとんどのことをどうでもいいとすら考えている。
みな偶然なにかを目にし、その「時(イデオロギー、恋愛、フォロワー、適応等)に張り付いているだけ」だったりする。
しかしインターネットはそうした「人の混沌、時間」をほとんど問題にせず、「書いたことのみ」を真面目に捉え、アーカイブを参照し、大真面目に議論している。そのような似非さがあるのだ。そしてその似非さを大真面目に捉える人々及び利用する人々が現実をも真面目なものに変えていくことになる。
つまるところある意味では現実だってインターネットとたいして変わりはしない。現実のほうが自由だというのはいまのところそうだと思うけれど、ネットが現実を塗り替えていき現実がネットに餌を与え続けるこの共犯関係をなんとかしないと現実もまたネットのように真面目なものへとインフォームドされていくことになる。事実として公共空間においてはもはや真面目な市民であり続ける必要があったりする。不真面目な振る舞いができるのはプライベートな空間だけで、単に「見つかっていないだけ」なのだ。なので別にインターネットから離れてもたいした意味はない。現実もネットもそこまで変わるものではない。というよりもこの真面目さに抗うことがむしろより現実的なのではないかと思う。
僕自身もかぎかっこつきだけど「真面目」な人間で、真面目さに取り込まれそうになることがあるけれど、だからこそ真面目さがいかに危ういかを言葉にできるのではないかと、そんなふうに思い、またブログを書いている。このままやめてしまおうかとも一瞬考えたけれど、向いていないのであれば向いていないことを言語化できるのではと思い、留まった感じである。
コロナが落ち着いたので飲み会や旅行に行ったりというのが主な理由でもあるのですけどね。以前のような更新ペースにはならないと思いますがとりあえず(というわりには長すぎるけれど)生存報告ということで以上です。