メロンダウト

メロンについて考えるよ

表層的コミュニケーションの限界と終わらないワンピース

子育てエッセイの先駆者として知られる西原氏のエッセイが実態にそぐわないものだと報道され炎上しているけどいろいろ考えさせられてしまう。
経緯としては西原氏のお子さんが成長し、エッセイで描かれていた家庭の内実をツイッターやブログでつまびらかにしたことに端を発しているみたいである。そのブログがはてなにあるので言及という形にもできるのだけれど、あれこれ言われること自体を快く思わないはずなので言及はしない。あくまで一般論として書いていくことにしたい。
 
この件はなにか他人事ではないなと思ったんですよね。ネットやリアル問わず僕達がしているコミュニケーションとほとんど地続きなのではないかと感じている。
 
西原氏が書いたエッセイと実際の子供が感じていたものはまったく違うというけれど、西原氏のエッセイを楽しんで読んでいた人がいることもまた事実ではある。それが虚飾されたものであるとはいえ、虚飾されたコンテンツが人気を博し、それがあるべき子育て論として現実を置き去りにして普及し、あまつさえよりリアルな質感を伴うものとして消費され、子育てエッセイというジャンルにまで発展した。このような「現実の総入れ替え」はインターネットが出てきて以降、あらゆるところで確認できるものではないだろうか。
 
西原氏のようにガワを取り繕い、虚飾で加工した「綺麗な物語」のほうがむしろよりリアルなものに見える。それは子育てエッセイに限ったことではない。たとえばセミナーやサロンといった一見して虚飾とわかるものだけでなく、政治や経済もまた現実を置き去りにした綺麗な物語が席捲している時代でもある。SDGsエシカル消費といったものがその筆頭であろう。
物語のほうが先にあり、それに追随するように現実が追いかけていく形だ。しかし現実が進むスピードには限界があるので物語だけが先走ってしまうことになる。ちょうど西原氏が現実の子供を置き去りにしたように、である。そして「追いつけない現実」と「物語」との整合性をとるために虚飾という手段が採用されることになる。
インターネットを通じ加速度的にコンテンツが消費されるようになっていったものの、消費速度についていけないコンテンツは淘汰されるか、そうでなければネタを捏造する、つまりガワを被ることで「物語に物語を追いつかせる」という形を取るようになるのであろう。
つまりインターネットというマスコミュニケーション装置はその高速性ゆえ、現実を吹っ飛ばし、物語に別の現実(虚飾されたリアル)を覆いかぶせ、その表層に化粧をかけるよう促しているのだ。
 
化粧、虚飾、あるいは表層のほうがリアルだというのはかつてボードリヤールシミュラークルという言葉を使い、「近代とは記号に埋め尽くされた世界である」と喝破したものに近い。しかしながらそうした「リアリティー」には当然ながら弊害が存在する。
代表的なものが炎上だ。近年、政治家が失言したりゲーム配信者が暴言を吐いて退場させられるといった事件が枚挙に暇がないけれど、具体的な事件の内容はともかく、僕達はそれを許すことができないでいる。言論として反対を表明することはできるものの、たいした効果がない。許せないとなったら許せないという身も蓋もない構造になっているのが炎上なのだ。
このような炎上したら終わりという事態にあっては、一瞬で炎上するその回路はどこからきているのかという「元を遮断する議論」を考える必要が出てくる。
愚考するにその回路がつまり上述した「表層化され、脚色されたリアル」なのであろう。いまや現実が取り換えられており、リアルとは表層のことであるゆえに、失言した個人がいれば即座にその表層は当該個人の物語、もとい人生という「徹底的なリアル」へと紐づけられ全面的な炎上へと発展してしまうことになる。
近視眼的に人間を判断し、高速的に取捨選択するというフォロー・フォロワーの関係と似たようなレベル、つまり表層によって実際の人間にも取捨選択の論理が働くのが炎上の原理ではないだろうか。したがってその表層、化粧が濃い好感度の高い人間のほうがより大きく炎上することにもなる。
 
とりわけ細分化して見た時の炎上にはルサンチマンやキャンセルカルチャーといった形で名前が与えられている。しかしながらその「発火装置」は同じものだったりする。
ゆえん僕達が何に怒るかという感情は様々ではあるが、持っている回路は同じである。一度イグニッションコイルに火がつけば、一瞬でエンジンが回りはじめ、ハンドルを捻れば高速で目的地まで移動することができる。よくできたバイクをみなが運転している。排気量(影響力)の違いはあれど、誰もが高速移動できる手段を持っている。そしてインターネットという道路もある。したがって、僕達は一瞬で自らの感情を目的地まで運ぶことができるようになった。あるいは誰かの感情を運び込まれるようにもなった。そして同時にその道路はコンテンツを運ぶ流通網としても利用されている。
つまるところ現実よりもはるかに高速化されたコミュニケーションの現場にあっては、その流通速度が現実の遅さを吹っ飛ばし、その速度に適応するため人々は自らに表象を施すようになり、現実と取り換えられた物語だけを運ぶようになると同時に瞬間的に発火した感情をも運ぶことになるという、その「表層にすべてが没する」ようになったのではないだろうか。
 
以上のように考えるに、西原氏の件に見られるような現実を置き去りにした綺麗で表層的な物語と、表層を全面的なリアルと判断して失言が炎上したりすることは、その「高速的な薄っぺらさ」ゆえに表裏一体なのである。
 
 
そして、こうした「高速的コミュニケーションゆえに生じる表層的判断」はなにもインターネットに限ったことではない。
 
一般に僕達には他人が何を考えているかわからないという暗黙の了解がある。たとえばここでこうして文章を書いていても私のことは程度としてわからないだろうし、インターネットの「表層」だけでわかってほしくもないと考えている。人に余白を残すことでコミュニケーションに弾力性をもたせるというのが他人同士がうまく付き合うコツであり、誰かをある部分的側面や表層で判断すること自体が褒められた態度ではないだろうと言える。しかし僕達はいまや「表層的なコミュニケーション」に慣れ過ぎていたりもするのだ。
ブコメツイッターなどであの人はこういう発言をしているからこういう人物だという表層的判断を連日連夜繰り返しており、その類推は母数が増えれば増えるにつれ的を外さないようになってくる。人間はみな違うとはいえだいたい同じであったりもするからだ。そしてその類推の果てに人への余白が失われ、より加速度的かつ無意識に表層的判断を行うようになるというのがつまりインターネットというマス(母数集め的)コミュニケーションが起こす悲劇ではないだろうか。
理想論を言えば、人は何を考えているかわからないという認識の余白、その建前を取り戻すべきなのであろう。
 
子供をコンテンツにしたエッセイが人気を博しても当の子供が実際に感じていたことはまったく違うものであったように、想像すら及ばない領域が人にはあるのだという、その最後のワンピースを残し続けることで守られるものがあるのではないかと、そんなことを思いました。
 

「ねえ」

ねえ
 
何?
 
貧困ってなんだと思う?
 
国民年金の督促状を丸めてゴキブリを叩き殺すことじゃない?
 
・・・ずいぶん具体的ね
 
ああ、具体的だよ。具体的じゃない貧困があったら教えてほしいくらいだ
 
具体的じゃない貧困、ね・・・パッとは出てこないわね。そうね。たとえばこういうのはどうかしら。その人は社会的に地位がある人で、でも周りに悩みを打ち明けられる人がいない、とか。
 
それは孤独というやつじゃない?
 
孤独は具体的な貧困ではないかしら
 
どうかな、社会的貧困とは呼べそうだけど
 
具体的かと言えば?
 
具体的ではあると思うよ。ただ、今の時代、孤独でお金を持ってる人を貧困とは呼ばないんだよ
 
弱者の要件を満たさない、みたいな話かしら
 
そうだね。孤独はやりたくてやっている人もいる。
 
でも貧困をやりたくてやっている人はいないと、そう言いたそうね
 
うん。望んで貧困をやっている人はいない
 
貧困を望んでやっている人はいない。そして貧困は具体的である。
 
定義上はそうなってるんじゃないかな、今のところ
 
定義上、ね・・・
 
ああ。具体的に与える有形無形の物資があって、それを本人が望んで受けとらないといけないんだ
 
ずいぶん含みのある言い方ね。その言い方だと本人が望んでいないと物資を与えるのはうまくない、ということになるのかしら
 
うまくない、と思うよ。プライドが邪魔をして物資を受け取らないというのはよくあることだしね。簡単に助けを求められる人ばかりじゃないんだ・・・・・・
 
ずいぶん長い間ね。助けを求められない、から貧困になったとでも言いたそうな
 
うん。事実、そういった面は大きいと思うよ
 
人に助けを求められないから貧困になる・・・でもそうなると孤独は貧困と言えるんじゃないかしら
 
論理的にはそうだね
 
じゃあ孤独な人にも支援が必要なの?
 
わからないね
 
わからない・・・君らしくない言い方ね
 
人の心はわからないだろ?それだけだよ
 
孤独への支援が必要かどうかは本人のこころ次第、ということ?
 
そうだね。孤独にも種類がある。孤独と、あとはまあ孤高とか、最近で言えばおひとり様とかそういうやつだよ
 
ああ、確かによくわからないわね。おひとり様はスタイルで、孤高は意志の強さで、とすると貧困に至る孤独は余計なプライドあたりになるのかしら
 
そうなるんじゃないかな。でもおひとり様だって貧困に至る孤独ではあると思うよ
 
どうして?
 
おひとり様を楽しんでいたら突然病気になって支援が必要になることもあるだろ?
 
確かにそうね。そうなると孤独という生き方は危険、ということになってしまうんじゃないかしら
 
ありていに言えば、そうだね
 
じゃあやっぱり孤独にも支援が必要ということ?
 
最終的には、ね・・・
 
またずいぶん変な言い方ね。
 
変、ではあると思うよ。たぶんみんな最終的にはひとりでは生きていけない。でも生きていける間は孤独でも良いってことになってるんだ。
 
そんなもんじゃないかしら。
 
そんなもん、ではあるね。でも生きていけない状態、つまり貧困だね。そうなると孤独が牙を剥いてくるようになってるんだ。ほとんど自動的に。
 
自動的に・・・
 
うん。具体的で、自動的で、そして最終的なんだ。貧困は。
 
そうね。でも孤独の段階では具体的問題じゃないので最終段階にならないと救われない、というのはなんだか悲しいお話に聞こえてしまうわ
 
悲しい、と思うよ。うん。貧困は悲しいお話だと思う。概して言えば、だけど
 
ずいぶん感情的な捉え方をするのね、めずらしく。そういうのはいつも私の役回りなのだけど。
 
うん。でもね、悲しいのに悲しいと言えないんだよ。たぶん。みんな。支援してる側も、される側も。同情しようとすると見下してると思われるんじゃないかとか、ほんとは泣き叫びたいのにプライドが邪魔して助けを求めきれないとか。そういう諸々が渦巻いている貧困は感情的だと言っていいんじゃないかな。
 
難しい問題ね
 
ああ、そしてこれからもっと増えてくると思う。そういう悲しみは。物価も上がるしね。
 
物価・・・またずいぶん具体的なことを言い出したわね
 
ああ、具体的だよ。具体的じゃない貧困があったら教えてほしいくらいだ
 
ーーーーーー
 
 
 
 
ところであなた
 
何?
 
ポリコレアフロみたいな喋り方ね
 
・・・・・・
 

女性だけの街の政治的危険性~差異が生む多様性について~

女性だけの街、というか極度に同質性を高めた街を構想する人の人間観はどこか牧歌的に見える。

 

男性からの被害を回避するために女性だけの街があればいいという素朴な案なのだろうけれど、そもそも僕たちは「差異があるから差異を差異として許容できている」のでは?

当たり前すぎて忘れがちだけど社会には男性と女性の両方がいて、その了解があるからこそ差異を包摂しようとする思考が生まれるし、差異を認め合おうとする社会や国家が構築され始める。男女の差異は時に分断と呼ばれたりするけれど、僕たちは分断があるからこそ他者を違う人として認識しようと努めるようになる。男性には男性のつらさがあり、女性には女性のつらさがあり、でもそのうちのいくつかは重なっていたりして、差異と同質性を見極めようとする営為がつまり社会的包摂の思想的な礎になっているのではないだろうか。

その営為の果てに差異を差異のまま認めようという多様性などが生まれる。男性は女性を「通して」人はそれぞれ違う人間だという思考を持つことができるし、女性もまた同様である。

僕たちは男女が共生する社会に生きているからこそ差異に耐えようと思考することができるのである。

最近の動きではLGBTQのほうがわかりやすいかもしれない。近年になりLGBTQを社会的に包摂しようとする動きが強まっているけれど、男女をベースに構築されてきた社会にあってLGBTQを包摂するのには相応の困難が伴っている。たとえばトランスジェンダーが男性用と女性用どちらのトイレを使用するのかもフェミニストと対立する事態になっており、そこに分断が生まれているように見えるかもしれないものの、しかしながらLGBTQを可視化することで今までは「いない人々」とされてきたLGBTQを包摂しようと社会が目指し始めたのは望ましいことであろう。無論、そこには一定の困難が生じてしまうけれど、耐えるべき新たな差異を発見できたことは社会的な収穫と言ってしかるべきではないだろうか。僕たちがLGBTQという差異に耐えようとしはじめたことはまぎれもない前進と言ってよいものだ。以前のようなLGBTQがいない人々とされてきた社会にあってはLGBTQのことを慮ることさえできなかった。社会的な議論の俎上にあげられたことで初めて僕たちはその差異、他者性を得ることができ、多様性のフレームを拡張する営為を開始することができるようになったのである。

男女、LGBTQなどなんでも良いけれど僕たちは分断があるからこそ分断を乗り越えようとすることができる。分断や差異がはじめから存在しないのであれば、僕たちは他者の違いを認めようと、そもそもしないだろう。人はおよそ認識できるものにしかその思考が届かないのであるから。

 

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個人的には以上のような立場で、多様性は耐えるべき社会的な「業」と捉えているのだけれど、翻って「女性だけの街」を考えてみるとその危険性が浮き彫りになってくる。

 

女性だけの街とはつまるところ「差異が存在しない街」と言えるのであるが、そこで生まれてくるのは極めて同質性が高いゆえに「他者について考える必要のない集団」だと言えるであろう。

女性だけの街であれば全員が生理にたいし理解があり、トイレの問題も考える必要がない。全員が同じ身体的特徴を持ち、全員が似たような生活様式をしていれば他者にたいする想像力を持つ必要が程度として失われることになる。すべての問題は極めてリアルになり、差異を埋めるための言論、つまり抽象性を持つ必要すらなくなる。自らの問題が他者の問題と完全に重なることで、自己・他者・社会の境界を引く必要がなくなるため、彼女たちの思考はありとあらゆるフェーズにおいてシームレスに統一されることになるであろう。一切の社会的な摩擦が失われることで、極めてなめらかに社会が回るようになり、しかし同時に小さな摩擦を許容することすら難しくなる。

 

一言で言えば全体主義であるが、差異をなくした集団が全体主義に至ることは明らかであり、そして全体主義の帰結は小さなことを針小棒大に捉える排外主義だと相場は決まっているのだ。

一般に僕たちは男性は女性になれないし、女性は男性になれないという「不変性」を内面化して社会的な議論を構築している。しかしながら女性だけの街ではその不変性が存在せず、人は変われるという「可変性」を前提に議論が構築されることになる。その結果「変われない人」は異分子として排外されることになる。

人は違うし変われないという前提があるからこそ僕たち個人は「全体」から距離を取ることができるのであるが、その防波堤が失われ、可変性が前提となった時、全体と個人は統一できるものとして認識され、全体主義が完成してしまうのである。そしてその「完成された全体」は適応できないものを異分子として排除するのに躊躇いを持たなくなる。ツイッターでエコーチェンバーに埋もれる政治集団が排外的な言説を喧伝しているのを見れば一目瞭然であるだろう。あれもひとつの「疑似的に完成された全体」なのである。全体主義にはそのような「論理的帰結」があることを忘れてはならないと思っている。

 

また、同質性を高めた人々による民主主義は社会を考える必要がなくなるため、自らを管理下に置くよう政治に要求し、独裁者を生む危険性もある。どのような政治体制であれ社会が全会一致の同質集団であれば、あらゆる政治システムはすべて無用の長物であるため、代表が決まればそれで良いとなり、市民は怠惰な投票を行い、政治への監視も全体性のうちに埋もれることで独裁者の専横を許し、また同時に摩擦のない無思考の集団はいとも簡単にデマゴーグプロパガンダに煽動されることにもなるだろう。

 

 

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そもそも僕たちは差異や分断を克服すべき課題としか見ていないフシがある。女性だけの街というのも分断を解消するためのひとつの案ではあるのだろう。しかし差異や分断があるからこそ僕達の社会は社会として屹立しているという側面があることを忘れてはならないはずだ。男女という差異はあまりに自明すぎて言明されることすらほとんどない。しかしながらその最も身近な差異・多様性があるからこそ、より大きな多様性(LGBTQや人種問題など)に思考を拡張することができるのである。そのすべてを解体し、ゾーニングすることで「住みやすい女性だけの街」をつくろうとするのも結構ではあるけれど、身近な危機を手放した瞬間により大きな危機を招くことになりはしないであろうか。

何が僕たちの社会を基礎づけているのかを今一度思い出したほうが良いように思う。

差異や分断とは解消されるべき課題という単眼的な視座で見てよいものではないし、そもそもそんな簡単に手放して良いほど陳腐な代物ではないはずだ。