メロンダウト

メロンについて考えるよ

差別にはメリットがあるし炎上にも道理がある

いんたーねっとってあるじゃん、いんたーねっと。

いんたーねっとの最大のデメリットって簡単に人に失望しちゃうことなんだろうなあとここ最近感じている。炎上かやさんの件や芸能人の不倫などがその代表なんだろうけど、同じように変なこと書いたブログとかに簡単に失望しすぎだろうと思うよ。

 

人間なんかみんなカオスなんだからさ、カオスを直視するしかないんだよね。先人達が倫理とか常識とか人権とか差別とかと戦ってきて人間の理想像みたいなものが近代になってぼんやりと形を作りつつあるけど個人で見ればやっぱりカオスでしかないんだよ。

集合知でもって理想の人間を偶像化して当てはまらない人間は批判されてもしょうがないみたいな空気がいんたーねっとにはある。それがとても気に食わないのである。

みんなブログに書いたら炎上するようなことのひとつやふたつあるでしょ。自分もあるよ。

書ける範囲で書けば大学生のころ居酒屋でアルバイトしてた時に仕事終わったらビールをみんなで勝手に飲んで帰ったことがある。悪ノリってやつだけどまぁそんな痴呆痴気な行動をすることも20歳ぐらいの時は一年365日のうち5日ぐらいはみんなあるんじゃないの?

うちの兄貴なんか「人間は顔だ。ブスは駄目だ。」っていんたーねっとに書いたら炎上必至なことを言ったりするけど、1mmも失望なんかしないよ。カオスだとは思うけど。

 

ここから本題

 

差別と愛の相克

何かを捨てることで何かをより好きになることができるという側面が人間にはある。傾斜をかけるっていったほうが適切かな。

例えば恋愛も差別的側面がある。誰かを好きだっていう感情が悪いとは誰も思わないが誰かを好きになるってことはその他大勢はその人よりも好きではないという差別が存在する。区別にカテゴライズされるのかわからないがまぁそんな言葉尻の話はどうでもいい。

愛情ということを例を挙げればマリリンマンソンとAKBをどっちも大好きと言う人間の言葉は信用ならないのだ。

愛情は差別感情が強いほど強い。それが他の人種差別のような醜悪な差別とは違うというだけで差別感情のメリットはあるし差別は一緒くたにまとめてゴミ箱に放り込んだら感性も愛情も一緒に捨てることになる。

 

炎上の道理

炎上するようなコンテンツも同じで何かを嫌いだってことは他の何かを好きになるための傾斜を築けるので炎上するような考えは本人にとってメリットがある。 

それが他者の好悪とは致命的な一線を画しているというだけで可燃性のある人物や記事は本人にとってはそれが思考の安置所のようなものなのだ。

例えばニルヴァーナビートルズを同時に好きになることは可能だがジャスティンビーバーは無理だ。それは差別でありけっして褒められることではない。しかしカートコバーンもジャスティンの音楽は認めないだろうと、確信に近いものを感じればニルヴァーナを好きであり続けるためにジャスティンを全面的に認めるわけにはいかなくなるという気持ち悪い感情が人間には存在する。

日本でも同様のAKB批判が存在するがyoutubeのオールドロックのライブ動画などを見るとAKBとは比べ物にならないぐらい現代のポップミュージックを批判するコメントが多い。

しかしネットにジャスティンビーバーが嫌いだと書けばジャスティンのファンに批判され場合によっては炎上するだろう。

 

そうして他者との致命的な隔絶を露呈して炎上した人間と炎上しない無謬の人間を比べた時にどちらが信用できるかと言えば、間違いなく炎上した人のほうである。

他者の評価など気にせず自分の好悪に順ずる姿勢は時に軋轢を生むが基本的にはステディーな心持ちだからだ。逆に全部好きという人の言葉にはいっさいの信用が湧いてこない。

理由は単純だ。「絶対にそんな人間などいない」からだ。

つまり炎上には人間が何かを好きでありつづけるために保守すべき道理があるのだ

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おやすみなさい