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メロンダウト

メロンについて考えるよ

この国の息苦しさの元凶は否定ではなく肯定だ

東京に慣れない。学生時代からもう10年にもなろうというのに慣れない。そんなことは個人の気質の問題であってそんな主観的感情だけで東京は住みにくいと表明するほど幼稚ではないのでただ僕という個人が東京に慣れないと・・・それ以上でもそれ以下でもない。

しかしJPOPの歌詞から知識人、一般人までいまこの日本の時代を表現する時に出てくる言葉が閉塞感であり「息苦しい」というものだ。なのでこの時代に感じる息苦しさはなにも僕個人だけの感覚だけではなくどこかみんな感じている部分だということらしい。

 

この閉塞感という雰囲気は具体的な話をすれば失われた20年や戦後レジーム、デフレなどが挙げられるだろうがここではすこし精神論に絞って話をしていくことにする。

 

神経質な否定が息苦しさを生むのではない。

インターネットが家庭にも広まり一般的に使われるようになってインターネット上でたびたび炎上が起きるようになった。これは他罰的だとか神経質な行いだとかまた他人を蹴落とすことを喜ぶ人達による行動だと言われる。

しかしこの他罰的という行いは一見すると俗悪的だが共感の裏返しであり同調だ。例えば、僕も見聞があるが女子高生がグループ内の雑談で別のグループの誰かを嫌いと表明する。そうするとその時の語尾に必ず「だよね」とつく。

A子「あの娘、男に媚びまくってぶりっ子で嫌い」

全員(顔を見合わせながら)「だよねぇ」

とこれは女子高生だけでもなくママ友でも男性でも同じことがたまに起きる。はてなブックマークのスター、facebookのいいね、twitterリツイートでも本質的にはその同調は「いいね」ではなく「だよね」という共感だ。

 

そしてこのだよねという肯定こそがこの息苦しさの根幹に位置するのではないかと考えている。

他人に共感することは一見優しいがその行いは精神論で言えばイデオロギーの共有である。なにがしかの意見を他者と共有することでそこに強固な繋がりが生まれる。それがいわゆる常識になって結果として常識に外れた人間を否定する原動力になる。

以前Twitterで飲食店の冷蔵庫にはいって炎上した件があったが、あれも実存的にいえば自由な行いであって掃除すれば済む話である。あの件が炎上したのは「冷蔵庫に人間が入るのは馬鹿」という認識を誰もが肯定できたからだ。だから常識から外れた人間を否定するという結果になった。つまり冷蔵庫にはいるのが馬鹿という認識を持たないかぎりは冷蔵庫にはいるのを否定するという発想は生まれないということだ。

不倫で降板させられたタレントも視聴者の怒りなどではなくむしろ常識や貞操観念によって降ろされた。不倫したところで視聴者に害があるはずもない。

 

 

常識を肯定する力は無敵

常識をたてに言葉を発してくる人は誰もが「私の、僕の何が間違っているんだ」という顔や心持ちで意見を主張してくる。しかし常識は多数人のイデオロギーの集合体であって個人を定義するものではない。常識が行政まで届けば法律になり社会的な抑制力が生まれる。しかし常識がまだ多数派の意見というだけでは他人の行動を脅かしてはならない。それこそがむしろ常識だ。

つまり常識を押し付けてくる人が何を言っているのかといえば上記の女子高生の会話と同じことを言っているにすぎない。他者が自らの価値や理念のとおりに行動しないと「ハブ」にする女子高生の同調圧力と同じだ。幼稚である。その常識を盾にした無敵の心持ちがどれだけ心地よいか知らないがその有無を言わさぬ肯定圧力がこの国の息苦しさを生んでいるとしか思えないのだ。

つまりいちど黙れということだ。

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沈思黙考

なぜ黙ることが大切かというと自分がどう考えているかなんて本当はものすごくどうでもいいことであって実際の人間関係で大切なのは折り合わない他者とどう付き合っていくかということだと思っている。だいたい人間同士、本当にわかりあえる他者は限られていてどうしたって他人にたいして面倒くさいなあとかあいつ嫌いだなあという感情を持たざるを得ない。

よく本音で喋ってよなんて言う人がいるが本音なんか喋ったらだいたいその場が凍りつくようなことしかない。合コンでお気に入りの子がいて他の女の子は興味ないし時間の無駄だからもうお開きにしようなんて言えばその場が凍り付いてしまう。だから建前を話す。そして建前を話してなごむその場の空気が本音も建前も超えて大切なんだよ。

差別だってそうだ。これは東浩紀さんのラジオを聴いた時に納得した話があるので紹介すると

 

東さんがある日、息子を連れてフロリダだったかどこかアメリカのLGBTの方が出席するパーティーに行く日があったらしい。その道中の車内で東さんは息子にLGBTについて「男が男を好きになるってどう?」と聞いたら息子は「気持ち悪い」と言った。そして東さんはこれからLGBTの方がいるパーティーに行くのにこれはまずいなと思った。しかしここで大事なことはそのパーティーで息子がどう振舞うかであってその場をどう乗り切るかということだけであって差別思想そのものはたいした問題じゃないという事を言っていた。

 

この話は大切な話だと僕は思っていて人間であればあるイデオロギーや差別思想、常識に染まることは当然であってそれ自体は問題ではない。その自分の歪んだ思想を持ってどう他者と折り合っていくかということだけが問題で思考そのものは問題ない。

 

だから常識を肯定して共感することもまたいい。何かを嫌いになってもかまわない。何を肯定したって否定したっていい。だからみんなが感じているであろうこの息苦しさや閉塞感を打破するには、(それは一見するとむしろ息苦しさそのものに見えるが)他者に発言する場合には一度その思いを沈めて黙って考えることが肝要なのだろう。むしろそれが常識であればあるほどに。