メロンダウト

メロンについて考えるよ

弱者男性を問題化した人間が問題である

弱者男性(この言葉自体がよくわからない言葉だ)問題についての議論で気になった意見で

「個人の生き方は他人から貶められるものでもなく強制されることも絶対にあってはならない」という意見

これは弱者男性にも差別をするなといった文脈で使われている。結婚をするのも独身でいるのも個人の自由で価値観を他者に押し付けてはならない。

これには個人的にまったくもって賛成なんだけど、この自由主義的価値観こそが弱者男性を苦しめているのではという疑問がある。

 

弱者男性は常にきもいとセットでとらえられるが現実に目の前でコミュニケーションをとると

外見的不適合(俗っぽく言えばブスやデブだがこれらの言葉はあまり使いたくない)を無視して性格に関してだけ言えば怯懦な人が多いように感じるケースが多々ある。

 

よく言えば思慮があり、悪く言えば自我が潰されてしまったみたいなそんな印象をむしろ強く受ける。強者男性や意識高い系の獲得主義から距離を置いた男性が「結果的に」弱者となったといった印象のほうが強い。巷で問題とされている高圧的なセクハラ男のほうがはるかに稀なことは間違いない。

これは女性の視点で見ると違うのかもしれないが少なくとも男性からみた弱者男性はそんなに何か問題のある集団には見えない。

 

 

問題とされているのは女性の性愛と社会的恥辱の側面であり、これをいかに救済して治安を維持するのかみたいな話だと思うが

 

この話はいかに喫煙者を排除してクリーンな社会を実現するかみたいな話と似ているところがあるように思う。

意見を発する側が誰のための社会を考えているのかといったら非喫煙者非喫煙者のための社会しか考えていないように、弱者男性を問題視する人は既得者である自分が生きる社会をいかに住みよくするかといった視点で意見を言っているように見える。

 

つまり「弱者男性は問題だ。なぜなら弱者男性は独身だから無敵の人で金がないから強盗に走るかもしれなくセックスする相手がいないから強姦にはしるかもしれない。」などなど。

これらの意見は主観でしかないし極論を言えば弱者男性は私たちのために絶滅しろみたいなことを人権などに留意しながらソフトに言い換えているだけのように見えてならない。

 

フェミニストや政治家が発する意見にはそれが透けて見えるから永遠に弱者男性は「恥辱」を味わうことになる。

 

話を自由主義的価値観に戻すと「他人の人生に干渉してはならない」といった言葉をそのまま隣人にたいしてまで適用させるのは間違いなく弊害を生む。

他人の自由を脅かしてはならないはストレンジャーに対して持つ理念であって隣人にたいして行使する権利ではない。

同僚や友人にはもちろん踏み込んでいいし若い女性にたいしてでも弱者男性は告白可能となるべきだし冗談を言うべきだし内容のないコミュニケーションをとるべきである。

 

弱者男性は若年女性に声をかけるとセクハラとされるのもこの理念を隣人に適用するのが主因になっている。あらゆるハラスメントでもそうだけど隣人に干渉して問題になるのは絶対におかしい。

 

その帰結が弱者男性問題が出てきた原因だと思う。つまり私達に干渉してくるきもくて金のない弱者男性がいるから理念で弱者男性との間に壁をつくりすみ分けしよう。

「私達はこっちで弱者男性はあっち。干渉したらハラスメントだからね。」を理念によって正当化するがもちろんここで悪となるのは壁をひいたほうである。

つまり弱者男性問題は問題にすることが問題であるのだろう。社会はもっとカオスにまわっているべきであって「良い社会」「健康的な社会」を言い出し好悪によって意見するのは排外主義である。

 

理念でしか弱者男性をとらえていない。現実には弱者男性は概してきもくはない。

 

すべてをハラスメントでかたづけマッチングサービスのようなつながりだけの社会は理念でしか社会問題をとらえなくしている。

弱者男性をメタで見ると背後になんかそんな空気が居るような感覚があるのだ。

 

まとまらなかった。また書くかも