メロンダウト

メロンについて考えるよ

リベラルが失敗した原因は人間は人間が嫌いなことを忘れたから

人間が嫌いな人間がそれでも人間と付き合う両義性にこそ人格が宿るとなんかそう思うのですよね。多様性ではないですよ。両義性です。

人間全員大好きみたいな完全にポジティブな人ってあまり普遍的な性格ではないと思う。人間が好きな人間はたんに幸運だったといったほうがなにかしっくりくる。

「社会的」に生きてればたいていの人間は人間が嫌いになる。仲間は好き、だが他人は嫌いなのが一般的な社会観だ。他人からの干渉をハラスメントと呼び過剰に警戒する今の日本でも実情に即したものがある。人間は人間(他人)が嫌いだ。

フェミニズムやLGBTも性が違うだけのことで人間を嫌うということが問題になってる。そこに平等原理で圧殺的に平等を周知しようとしているが彼ら彼女らは、人間は人間が嫌いなことを無視して話しているように見える時がある。フェミニズムLGBTもつきつめれば「人間を好きになれ」に帰着する。

しかし人間を好きになれはこれは感情の強制であってほとんど不可能なんじゃないかと思えてくる。

 

そこで思ったのが人間を好きになれといっても始まらないから人間は人間が嫌いなことを前提として話し合わないと建設的なものにはならない、だ。

人間は人間が嫌い。これは事実であるいっぽうで諦めの言葉、ではない。

民主主義を提唱し社会契約論を書いたルソーは人間が嫌いだった。人間は人間が嫌いでも社会と関係して生きていかなければいけない。それがルソーの書いたことだった。民主的な機能を実装することで時に戦争になるほど人間を嫌う人間同士でも最低限の秩序を維持して社会をつくっていく。

そんなんじゃ秩序は維持できないよ、と後世の賢者は批判したがしかし現在のリベラルが行っているような人間観の押し付け。特に善意を想定して民主主義を運営するなどは考えてすらいなかったはずだ。善意の押し付けは機能しない、とわかっていたからだろう。社会契約論に特殊意志という概念(個人の欲望)がある。ルソーは特殊意志の集合体として一般意志が存在すると書いた。そこで前提になっていた条件が個人は個人の欲望で私的に投票することだった。現在のように議論して個人の欲望を強制することは否定していた。議論は国会で行うものであって投票行動において議論を実装することはすすめていなかった。

 

理念や公益、自由や平等などなんでもいいがある特定のイデオロギーによって個人の人格を規定し圧縮していくと個人が持つ歪な欲望は投票行動には反映されなくなる。有効票数の関係でもそうだ。

しかし、もっと大きいのは議論によって正しい社会観を得た個人は個人の欲望に沿って投票しなくなることだ。投票するために議論すると公益にかなったイデオロギーがメディアなどを通じて拡散する。その拡散過程において難しい考えはスクリーニングされ「拡散性の高いイデオロギー」しか残らなくなる。炎上のメカニズムでも同じだ。誰でも簡単に叩ける記事が炎上して表に出てくる。それは政治でも変わらない。

それが現在のリベラルであり、同時に保守でもあるように見える。投票のための議論は往々にして浅薄な答えに収斂していく運命にある。

そう考えると現在のポリティカルコレクトな投票は言い換えれば個人の欲望を議論によって妥協化された結果政治的に考える人間が行うポリティカルコンプロマイズ(政治的妥協)な投票であると言える。

しかしその浅さ、妥協、拡散的イデオロギーは残念ながら機能しない。それがリベラルが失敗した原因と考えることができる。

多様性や平等、人権、ヒューマニズムなど誰でも賛同可能なイデオロギーでもって布教してきたリベラル。その理想は保持すべきだけど

大前提として人間が嫌いな人間は人間が嫌いだ。その前提が崩壊していることがいまの自由主義のやばさだ。いままでは人間嫌いでも妥協的にリベラルを支持した人達がいた。しかし感情を抑え込んで公的に生きてきた人達がこのところ世界中で一気に逆に。つまり「感情側」になだれこんでいる。

それがトランプでありBrexitだろう。いっけん無関係に見える民進党の崩壊もリベラル支持層を獲得できなくなった背景には世界的なリベラルの失敗に遠因があるように思えてならない。

 

結論としてはリベラルが多様性をすすめてきたが人間が嫌いな人間を認める多様性は存在できなかった。

人間が嫌いという発言はヘイトだとして排除してきた。しかし人間は人間が嫌いだ、人間が嫌いな人間を認める多様性、完全に矛盾するふたつ。この矛盾を解決することが自由主義の課題だと言える。

ひとつ、自分が考えるのはその両義性を認めることはそんなに不可能な話ではないと思う。実生活上でもそうだが両義的じゃない人はめったにいないしネット上に出てくるようにカテゴリー分けされてポジ出ししか出来なくなってる環境だと人間をヘイトかポジティブかで分けてしまうがネットで愚痴ばかり書いてる人もわりと楽しく生きてる。

自分もそうだ。音楽聴いたり漫画、小説、思想書なんか読んだり飲み会いったり、ジムいって筋肉痛になって寝るのはすごい楽しい。ブログだと小賢しいことばかり書いてるけど楽しいことは書かないだけ。文章にすると超つまらないものしか書けないから。

ようは厭世と人生素晴らしいは両立するのですよね。パリピなんかもきっと裏で泣いてたりするだろう。インスタでキラキラしてる人も裏垢とかつくってヘイトまき散らしてたりすることもある。

 

その両義的な人間観をリベラルはずっと忘れてきた。綺麗な理念だけが運命的に残ってそれを押し付けてもそもそも両義性を持つ人間には届かない。

 

人間は幼女であり狐でありおっさんなのじゃあ

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 とりあえず以上です。

長くなったのでいったん終わり。

書きたかったのは人間は人間が嫌いだから自由主義個人主義に流れるからやばい、強制的関係ですごす時間に人格が宿るとか

あとはロマンチックではない一般的愛情は形式によって固定された時間の中で生まれる情のことをいうから個人主義を生む自由主義はやばいとかなんかそんな話も考えた。

から書くかも。