メロンダウト

メロンについて考えるよ

自主性とフリー~いかに人は概念的に自由になるか~

 

あけましておめでとうございます

今年もこの泡沫ブログを忽然と書いていきます。

 

フリーとはなんだろうか。自由とはなんだろうか。

リベラルのいう自由はもう食傷気味なのでフリーに立ち戻れば自由が見えてくるのではないかと思った。

 

というのも正月、電車に乗っていたのですが、乗っていると床に座って菓子パンを食べている高校生を見かけました。

2人組の男でいかにもな風貌でスマホをいじりながら菓子パンを食べている学生が2人。通常だと「なんでこの人達は人の目も気にせず電車の地べたに座りパンを食べているのか、迷惑だと思わないのか」と考えそうですけど

 

その時に自分が思ったことは電車内に座り込んでパンを食べている男性は「何が悪いのか」ということだった。

なんで電車の床に座ってはいけないのだろうか。考えてみても理由が思いつかない。せいぜい場所を取るぐらいであるがすいている電車だったのでその批判は妥当なものとは言えないだろう。パンにしたって菓子パンだから臭いもないし「悪いこと」ではない。

・・・よく考えると何も悪いことなどないのですよね。

 

彼らは何も考えず座っているだけですがしかしこんな馬鹿馬鹿しい話こそが

フリーという自由に立ち返るにはどうしたらいいのかに接続する。

電車で地べたに座って菓子パンを食べながらスマホをいじっている学生は自由を教えてくれる。

シロクマさんがあげていた自主性に関する記事に言及すれば自主性って自由性と二アリーイコールで繋がるように感じる。リベラルのいう規範的自由ではなく純粋先天的な規範によらない自由(フリー)を取り戻すことがひょっとしたら自主性の再生に繋がるのかもしれない。

 

もう一度、自由からはじめる。

それが肝のように思った。新年だし。幼児のような自由=フリーを考えることにする。

 

 

 

無意識を縛る規範の中で語られる自由がある。おそらくはそれがリベラルのいう自由だと思う。資本主義の中における自由。民主主義における自由。休みの日の自由。

 

ある規範の中における自由。その感覚が大人になるにつれて強烈になっていき、その結果身動きがとれなくなって自主性=自由性=フリーが毀損していく。概念的にはそういう考え方が可能である。

たとえばテーブルがあり、椅子があり、その前にテレビがある。こんなありふれた環境でも自由は試される。ほとんどの人間が「椅子に座りながら」テレビを見るかテーブルで食事を摂る。

この椅子こそが規範そのものであるだろう。自主性を取り戻すにはこの椅子を概念的に、意識的に壊す必要がある。

テーブルの下にはいり食事を食べたっていい。テーブルの上に座ってもいい。テレビをテーブルの上に置いてもいい。

すべてが定型化された世界では無意識のうちにすべてが理想的配置におかれることが望まれるためその環境に人間も適応せざるをえない。無意識に。それが自主性の毀損につながるように思う。それはおそらく椅子にしか座ることができないような生き方そのものとも言える。

もう一度自由からはじめようはここにかかってくる。理想的配置のごとく理想的生き方のようなものがまだこの世界には根深く残っている。日本に限った話でもない。アメリカだってヨーロッパだって理想的人間像はある。

 

しかし電車内で地べたに座ることが悪いことではないように椅子に座らないことが悪いことでもない。自由を考え自主性を考える時には「発揮できる自由の裾や」をひろげ視点を拡張することが

 

たぶん、シロクマさんの記事への概念的な回答になるのだと思う。

 

本年も、よろしくお願いします。