メロンダウト

メロンについて考えるよ

借り物の自由を子供に与える人々

不登校Youtubeとして話題のゆたぼんがたびたびネットニュースになっている。学校に行かないという生き方にたいしてはやはり賛否両論あるみたいでいろいろな人がゆたぼんに言及している。ゆたぼんの父親にたいする批判、ネット乞食だというものまであった。

 

ゆたぼんはもう初等教育をふいにしてしまっているみたいなので好きに生きるしかなくなっているのだと思うけど、個人的に気になったのが学校を監獄のようなものとして捉え自由との二項対立にしてしまっている点である。

ある種の規範や権威を取り上げそれがいかに不自由かを説き、そこから自由になろうというのは自己啓発における定型句のようになっていてけっこう陳腐な話ではあるのだけど、規範と自由を二項対立にし、それを子供に植え付けるのはやはり罪深いように思う。

 

ゆたぼんが言っているように学校が規範まみれで子供にとっては監獄のような場所だというのは一定程度事実ではあるのだろう。僕も学生時代にはそのように感じることがあった。古くは尾崎豊が『卒業』という曲で「この支配からの卒業」と歌っていることからもわかる通り、学校が支配や規範に満ちた空間であるというのはかなり一般的な感覚ではありそうだ。

 

また、学校教育で教わる学問についても多くの人にとっては無意味なのかもしれない。義務教育を受けた人はみな学校で英語を教えられるのに実際に英語を喋ることができる人は少ない。英語を仕事に活かし自らの生活の糧としている人はもっと少ない。数学、政治経済、歴史などの科目も覚えていない人のほうが多いぐらいではないだろうか。

ではこのような規範まみれで将来的には忘れてしまう知識を教えられる学校という場所には行く必要がないのだろうかという問いが当然出てくる。それはもう随分昔からあるありふれた問いだ。個人的な意見だが、こうした問いにたいし答えるのであれば「自由になりたければ学校には行ったほうが良い」と、そう答えると思う。

 

自由になりたいと考えているのはゆたぼんだけでなく、実存を自由へ開いていくというのは、現代人にとって最も広く共通する悩みであるように思うが、それゆえに人を自由へと駆り立てる言説は広く頒布されてもいる。しかしその多くはプロセスを問題にせず、できるだけ短時間でストレートに自由へと到達することを喧伝していることが多いように見える。

個人的な意見だが、自由になるためには自らが何にたいし不自由なのかをまず知る必要があると思っている。人が持つ不自由はそれぞれで、たとえば毒親のもとに生まれた人にとっては家庭が不自由だということ、まずそれを知る必要がある。いじめ、ハラスメント、ブラック企業、貧困も同様だと思う。そうしたものからは逃げ出したほうが良いことだってある。けれど大事なのはその不自由を不自由だと自らで正しく認識することなのだろう。

ゆたぼんは父親の影響で学校が不自由な場所だと最初から断定してしまっているように見えるけれど、そこには一切のプロセスが抜け落ちている。それだけが問題で、不登校という結果はどうでもよく、そこに至る過程の欠如のほうがはるかに重大な問題であるように見える。一言で言えばゆたぼんは自らが何にたいし不自由なのかを実のところ何も知らないのではないだろうか。

 

自己啓発書を読むように、他人の物語を再帰的に自己解釈することで仮想敵を想定し、あらかじめその場所は不自由だからと判断することで「最初から学校のような規範から離れてしまう」というのは、何が不自由かを判断する経験が欠如している点から、その自由は空想になってしまい、自由としての「実」を持ちえないように思う。

学校が不自由な場所だというのは、事実としてはそうなのだろう。しかし学校は「不自由を練習する最初の場所」でもあって、その不自由の上に自由が屹立するというのが、おそらくだが自由の成立過程であるように思う。自由は単独でたっているわけではなく、規範があるから自由があるし、自由のためにこそ規範が必要となる。そうしたギリギリのバランスの上にたっている危ういものが自由であり、規範の伴わない自由はいずれ瓦解してしまうだろう。ものすごくベタに言えば無職で飲む昼ビールは美味しくないみたいな話である。

ゆたぼんには親から与えられた「理念としての自由」はあっても「経験としての自由」がない。この意味で、ゆだぼんがよく問題提起として言っている学校が本当に不自由な場所かどうかという議論はさしあたりどうでもよいことである。むしろ不自由な場所だからこそ自由になるために行ったほうが良いし、学問についても同様に何を知らないかを知るために行ったほうが良いと、僕ならそう答えると思う。

 

 

厄介なのが、こうしたゆたぼんの「一足飛びの自由」を自由になった大人が擁護するという構図である。自由になった大人というのは傑物であることは間違いなく、僕のような不自由で凡百な個人よりはるかに優秀な人間なのだろう。たとえばゆたぼんを擁護している茂木健一郎さんも、知識一辺倒の学校教育を超克して自由になるべきだといスタンスからゆたぼんとゆたぼんの父親を肯定しているのだと思うけれど、茂木さんのような規範を超越した稀有な個人とまだ子供であるゆたぼんとでは同じ自由を言っていてもその中身やフェーズがまったく違うものになる。誰もが茂木さんのように知恵を駆使し自由になれるわけではない。むしろ不自由の中で一時の自由を享受するのが多くの人々である。

そうした人々に自由を説いても自由のほうが逆に監獄になることがある。たとえば一昔前にも「自分探し」や「何者かになりたい」という実存の自由が叫ばれていたが、それに影響された人々も結局のところ自由にはなり切れず、不自由と自由の二足の草鞋を履き人生を歩んでいくことを選択してきた。

自由から不自由へ、不自由から自由へ、その反復横跳びだけが多くの人にとっての現実なのである。世界をまたに駆け自由に生きるのではなくたまの旅行を楽しむために今日不自由でつまらない仕事をこなす。マッチポンプと言われようともそうした往復を楽しむほうがいくらか現実的であるように思う。

 

 

 

他にも学校に行ったほうが良い理由はある。それは今のような個人主義社会にあって学校が持つ共同性や同質性が逆に貴重なものになっているということだ。

社会に出れば多くの人にとって共通する場所は失われ、それぞれの場所に点在するようになる。社会的地位もそれぞれに偏在するようになって話題が嚙み合わなくなったり、だんだん違う人間になっていく。それは悲しいことではあるけれど、もともとはみな別の人間でたまたま同じ学校にいただけなのだから当たり前なのだろう。しかしそのように個人がバラバラに散っていく社会の条件下では学校という共通感覚、コモンセンスは貴重になってきている。それを失う機会損失の大きさはたぶん大人になってからでないとわからないように思う。社会という荒野の中で、たまたまそこにいただけの無意味で無目的でただ思い出を共有するだけの学生時代の友人はやはり大切なのである。

現実の人間関係だけでなく、サブカルチャーも学校を前提として作られているものが多く、この点からも学校に行くことは大切だと言えそうだ。多くのアニメや映画では学校を舞台装置として取り上げており、肯定的に描く場合は青春として、否定的に描く場合は不自由で閉鎖的な空間として描かれたりしている。どう描かれているかにせよ、これだけ学園モノのアニメや映画が多いのは人々にとって共通の場所がもはや学校ぐらいしかないからなのだろう。それ以外の場所はすべてニッチなものになり、学校だけが説明不要の前提を有する場所として存在できている。

学校に行っていたというと多くの人にとって当然のことではあるが、それが当たり前ではなくなった時、いまここにあるサブカルチャーを楽しむ素地すらなくなってしまう。

たとえばゆるきゃん・けいおん僕は友達が少ないのような学園もののアニメも、学校に行っていたという経験があるからこそ、そのアニメに共感したりすることができるし、逆に「このアニメにはリアリティーがない」という批判的な見方も可能になる。それにはまず学校が実際にどのような場所だったかという共通前提を経験的に知る必要がある。これだけ面白く豊富なサブカルチャーがある現代で、その批評感覚を失ってしまうことは大変もったいないことであるように思う。そのためにもやはり学校には行ったほうが良いと言えそうだ。

 

 

ゆたぼんは13歳で、学校に戻ったとしても学業に追いつくのは大変だと思うけれど、まだ遅くはないように思う。自由になりたければ不自由を知りに学校に行ったほうが良い。借り物の自由を行使してはいけない。僕から言えるのはそれくらいではある。