メロンダウト

メロンについて考えるよ

体罰と権威の失墜と正しさの恣意性について

最近、まるで金言のように「対等なコミュニケーション」と聞くことが増えた。恋愛における男女関係でも店員と客の関係でもあるいは上司と部下の関係でさえも。

対等、平等といえば全てを喝破できると考えている人は認識が甘いと思う。最近ニュースになっている体罰事件にしても同様の感想を持った。生徒と先生は同様に人間でその一切に力関係があってはならないというのは崇高すぎる理想である。

そのような形では社会は回らない。逆に平等や対等という言葉を振りかざした側が今度は権威になり対等ではなくなる。正しさや政治はパワーゲームであり、その結果起きるのは政治においてはどの政党が政権を運営するかであり社会においては「どちらに恣意性を認めるか」という選択である。

 

 

現在、体罰は絶対に許さないという意見が強い。それが今の社会において支配的な正しさである。しかしこの正しさが厄介だ。平等という金言で教師と子供の関係をたいらに敷設した結果として力関係が逆転して親と子供のほうに恣意性、「選択」が与えられている。

件のニュースでもその力関係が見て取れる。

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この動画における体罰は以前考えられていた体罰とはその構造が違う。今までの体罰は教師という権威が暴走したものであり、それは教師の短絡的な手段という側面が強い。けれどこの動画における体罰は子供が持つ権威が増長した結果としてのカウンターに見える。どちらも罰ということは変わりはないがどちらが力を持っているか考えると既成の論理(体罰絶対反対)においてこの事件を批判することはできない。

 

 

この事件は体罰問題ではないように見える。体罰問題が問題化して教師と生徒の力関係が逆転した結果として起きたカウンターであり、秩序とは何か、政治とは何か、正しさがなんたるかを原理的に考えるべき事件であるように見えた。

 

そもそもなぜ、体罰は起きていたのだろうか?体罰が容認されていた以前の学校でも教師が体罰を行使するには理由があったはずだ。体罰は短絡的だとワンフレーズで批判することは簡単だけれど事はそれほど簡単ではない。教師に権威を与えなければ学校の秩序が維持できなく、その権威が暴走した結果が以前の体罰だ。体罰なんてものは常に間違っている。昔も間違った行動だったのだろう。権威を正しく行使するにはそれ相応の能力を持つべきで体罰を使うのは間違っている。

しかし今起きているのは体罰を禁止した結果、その権威までなくなろうとしていることだろう。

個人的な見聞で言えば教師になるなんて人はだいたいいいやつだ。子供の好奇の目にさらされ教鞭をふるう社会的責任がある一方で給料も頭打ちのうえ激務で子供には時に軽んじられる。ある意味これほど報われない仕事はない。教師は善い人だ。教師を目指すという時点でその善性にはふるいがかけられてスクリーニングされた善人が教師になりやすい。なんとなくなる人ももちろんいるだろうけれど割合としては善人が多いことは間違いないだろう。

以前の学校内における力関係では教師のほうに権威が預けられその善性に恣意性が与えられていた。その結果、一部体罰という手段に依存する教師もいた。それは批判されるべきである。しかし以前の学校でも体罰を行う教師というのは割合としてはかなり少なかったはずだ。

この体罰問題が拡大解釈されて別の問題が出てきた。それが学校内の力関係の逆転。つまり子供+親の増長である。その結果として子供のほうに恣意性が与えられることになった。

 

いままで教師の善性によって運用していた学内秩序が壊れ無邪気な子供に恣意性を与えた結果、勘違いした子供が暴走した。それが今回の事件の構造的および政治的な問題だと言える。

体罰がダメだというのはなるほど正しい。しかし体罰を禁止して教師の権威を善悪判断ができない子供に与えていいのだろうか。体罰がダメという金言の副次的な結果にたいしてはどう考えているのだろうか。

 

秩序が無秩序だと批判した結果できた秩序らしきものが別の無秩序を生むということが現実には往々にしてある。民主党が政権をとってどうなったかもう覚えていないのだろうか。資本主義も民主主義もベストではなくベターなだけである。それを批判することは簡単だが常に選択は残る。そしてその選択の結果どうなるかは結果としてだけしか知りようがない。マルクスレーニンが正しさを持っていた時代、共産主義が成功していたら世界の主流は共産主義になっていたかもしれない。その政治的決断は常に後世の人間がジャッジするだけである。ちょうどいま僕達が体罰を批判しているように。

 

国という大きな単位ではなくとも人間が集団として生きるには政治的にベターな状態がどういうものか考えるべきである。それは学校も仕事でも同じことだろう。こうこうこういう理念が正しいと机上で考えた結果、そのわりを食うのは常に現場の人間である。

 

学校における教師の善性に依存した権威構造はベターな政治的決断だと僕は考える。それが体罰という形で行われることがあってはならないが子供が権威を実感するぐらいには体罰的空気もまた必要なものだ。に僕は投票したい。