すこしまえに無敵の人という言葉が流行ったことがある。資本主義社会の下層に生きていて社会的にも精神的にも何も失うものがない人のことを差して「無敵」だというものだ。
最近ではアメリカの大統領選でトランプ氏が躍進しているのも格差と貧困の下層にいる無敵の人からの支持が大きいのだろう。秋葉原での刺殺事件もそうだった。
治安的な面ではこれはものすごく問題だ。けれど一方でそれを極度に恐れる人達がいる。カテゴライズするのであれば現代社会の常識のある「一般的」な大人のことだ。
僕は彼ら、おしむらくは僕自身も含めた僕らを無謬の人と呼ぶ。無謬とは何か?
理論や判断に間違いがないこと。とある。
間違いがない、という人は絶対にいないので間違った行動をしない人間、もしくは間違う可能性のある言葉を発さない人間のことを僕は無謬の人と呼びたい。
常識人と言われている人のことだ。僕はあえて無謬の人を激しく批判しようと思う。もちろん僕も含めてだ、いつもテキトウに書いているがこの記事に関してはペンではなく血で書くことにする。
多様性の欠落
多様性の欠落という記事をトイアンナさんが書いていた。件の株式会社ベアーズの役員が女性はめんどくさい生き物だというエントリーに言及する形で。
ネット炎上案件ほぼすべてのことに関して断言できることがあるとすれば当事者性を排除した無謬の人による無敵の世論によりぶったたいているということだ。
ネットは構造的にも匿名性という仮面や相手の顔が見えないという身体性と対他性の欠落によりこの無敵の言論はインターネット上のあらゆるところに蔓延っている。
ネットである記事の他人の言説を見てそれに追従する形でコメントを残すというのは言論においては最悪だ。絶対に間違うことがないうえに自らの承認欲求は手放しで満たされることになるほとんど麻薬に近い。
インターネットの言説において、ことによれば現実でも多様性というのは確実に担保されてはいない。はてなブックマークでスターがたくさんついているコメントを見てマジョリティを知ることによって言葉はある特定の賛否に集約していくように「個人」は訓練されていっている。
僕自身も経験がある。タバコの是非であがってきたエントリーを読んでタバコを擁護しようとコメントを残そうと思ったが嫌煙コメントにスターがたくさんついているのを見てやめたことがある。
そうして僕は僕の主観を失っていく、世論に迎合するような形で常識という無謬の衣を着るようになる。
同様に僕のコメントやエントリーが誰か他人の主観を、場合によっては奪ってしまっているのかもしれない。
ある物事に関する賛否はそれがどんなものであれある程度は誰かの主観を排除し、社会から思想的多様性を排除していく。個人の感受性や成熟度、性格的にその程度はあれど多様性どころか間違いなく一様性へ収斂していく。
そうしてあらゆる主観が取り上げられた結果、常識でしか物が言えなくなり全てを客観性という武器で解決しようとする人は絶対に間違うことがなくなる。無謬の人になる。現代社会での一般的大人という人間だ。
無謬になってはいけないし極端に言えば現代社会の模範的大人になってはいけない。と僕はそう思っている。
無謬とは臆病さそのものだ
なぜ無謬になることがいけないのか?
無謬になるとは個人の主観性を排除していくこと、というのは上にも書いたが主観性を徹底的に排除していった時に自分自身が何者なのかわからなくなるからだ。
これは社会的な話ではなく思想的なアイデンティティーの話だ。社会的なアイデンティティーというのはひどくもろい。
よく信頼は築くのは大変だが失うのは一瞬だと言われるがそのとおりで同様に企業で身を粉にして働いても株価が下落したり窓際に左遷されればすぐに失ってしまう。
そんな一瞬ですぐに壊れてしまうようなものにすがりつくことは昔のような年功序列社会ならばいいが今のような流動性の高い社会ではかなり危険だ。
大事なのは思想的なものだと僕は思っている。宗教的な話はすぐに敬遠する日本人だが世界的にも歴史的にも人間に最も大事なものは宗教と家族だと証明されている。
宗教というと儀礼的な響きがあるがここで言いたいのは自らの経験により積み重ねてきたもっと小さな意味での本来的な思想だ。
しかし最近は思想的なものは画一化されてしまってきているように感じる。カテゴライズされてきていると言ったほうがいいだろうか。
例えば草食系男子という言葉。
男が草食化しているというビックデータによる分析は勝手だ。しかし男が草食化するというのは必ず理由がついてくるものである。女性関係にトラウマがあったり両親の仲が悪くて異性愛を信じられなかったりと草食系男子の数だけ草食化する理由がある。
問題は草食系男子と人が言った瞬間に人は本来それぞれ特殊である特定の個人を無理矢理その枠に収めてしまうことだ。誰もかれもそんな単純な人間じゃないのにだ。
そんな言葉が流行るのも人にたいする感度が欠落していっている結果だろう。もしくは人にたいする思考を放棄しているとも言える。もしくは人への臆病さだ。
そうして自らの思想や人への感度をなくし、感性が深化していかなくなる。すると全方位的コミュニケーションがとれる無難な言葉ばかりを発するようになる。
上に書いたように突飛で棘のある自らの思想が常識によってたちどころに封殺されてきた経験による臆病さの表れだろう。
結果として絶対に間違う可能性のある言葉は発さない無謬の人ができあがる。悪いわけではない、ただ思想的には無謬の人は死んでいるも同然だというだけだ。
常識しか言わない人の言葉にはネトウヨの極論以上に価値がないのだから。
無敵の人VS無謬の人
いっぽうで無敵の人は異常だ。現在のアメリカ大統領選挙でトランプ氏を推すのも異常だと言ってよいだろう。
イスラム教徒の入国禁止やメキシコとの国境に壁をつくるなど中世に退行するような原理的な言葉ばかりだ。歴史に何も学んでいない、馬鹿だとすら言って良いかもしれない。
しかし無敵の人がトランプ氏を支持するのも現象としては非常に納得がいっている。
いっぽうで彼を批判するのは無謬の人だ。近代にどっぷりと漬かり人への感度と当事者性が欠落しているので貧困問題の深刻さがわからなくなっている。みなそれらしい言葉は発するが格差がなくならないのは資本主義である以上当たり前でもあるがそれ以上に政治家やその支持者である無謬の人に貧困の悲惨さという当事者性がないからだろう。
いっぽうで発する言葉は無謬で無難な言葉を発する。そしてトランプ氏の極論に支持が集まるようになる、たしかにトランプ氏の言葉は扇情的な言葉ばかりだが格差の下層にいる人達が望むのは変化だけだ。それが例え戦争という最悪の形であっても。
「31歳フリーター、希望は戦争」という論文が日本で話題になったことがある。
http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html
無敵対無謬という構造はアメリカ大統領選挙にもネットの炎上にも見ることができる。
無謬の行き着く先
無謬ということは自らが絶対に間違わない立場に立てるということだ。ありとあらゆることを受け入れることができる。誰かが何かを言っても「僕の考えの中にその考えはあるから」と言うことができる。
いっさい傷つかなくて済む。究極的な保身だ。思想的なものではないから保守ではない。保身だ。
自らの思考を排除して排除して排除して最後に残ったのは皮肉にも最も根源的な主観である我が身かわいさなのだ。
ちょうど木材をカンナで削っていくように表面上はきれいに見えても木は確実に削がれ消えていってしまっている。
無謬の君は誰でもない、僕も誰でもない。おそらく生きている価値が「思想的」には全くない。