年末だしなにかまとめて書こうと思ってたんだけどやめて最近かんじたことを雑記にして書いていこう。コミュニケーションについて。
LINEの既読スルーやフェイスブックのいいねなんかもそうだけどコミュニケーションの様相がネットができてからすこし変わってきたような気がしている。感覚的な話なのでまあいつもの意味のない話なんだけど
同調圧力と言っていいのかLINEの既読スルーにしても人をコミュニケーションに駆り立てる点でいつかの時代のメールよりかはやく返信が来る。返信が早いことは喜ばしいがしかし逆に返信が遅いとそれだけで信用を傷つけるようになったとも言えてしまう。信用の閾値があがっている。そうして常に外部と接触している時間が永久につづき「閉じる時間」がなくなってしまったように思う。だから瞑想なんかが最近流行り始めたのではないだろうか・・・
以前は瞑想や自律訓練法など意識的に閉じる瞬間がなくても家に帰ればおおむね孤独だし寝る前に見上げる天井に閉じる時間があった。今日日、寝る前はスマホをいじっていて外部と繋がったまま、「開いた時間」のまま眠る人も多い。無意識の閉じる時間がコミュニケーションツールによって奪われた。最寄駅から自宅まで空を見上げ考える時間は歩きスマホにとって代わった。他者とコミュニケーションをとることは非常に大事だしLINEもその点では非常に有用なツールである。しかし人には孤独も必要だ。半強制的に与えられ無意識に行うべき孤独感情は事実上死んだ。
これがコミュニケーションを急進化している。
同調圧力という言葉がある。クソをクソと言ってしまうことはネットリテラシー的にはアウトなふるまいである。程度問題としてみな同調する。批判するなというとこれもまた強制力があるが批判は難しい。人が人を批判することは善悪判断以上に技術が必要だ。むしろ技術のほうが大切かもしれない。
どんなものであれそれを批判した瞬間に悪を定義することになり罰の量を増幅させる。なになにがいけないや「不倫はダメ」などみな発言するが価値観を定義し続けると思考の柔軟性を失ってしまい後に苦労する。例えば僕の中学校時代ではオタクは気持ち悪いという考えが普通であったし僕も子供ながらにいい年してアニメ見てる大人ってかっこ悪いななんて思っていた。当時の世界ではオタク批判は正義であった。時代は変わり、もうオタクが気持ちわるい時代ではない。しかし僕はいまだにオタクが気持ち悪い残滓が心のどこかにくすぶっていることを実感する。自らもそういうものを見ているにもかかわらずだ。
中学校時代にオタクを批判(というかオタク批判の空気にあてられた)した僕の価値観はいま生きている僕自身の心に小さく影を落とすことになった。つまり批判は他者にたいして不快な思いをさせるからやめろ、というのももちろんそうであるがそれ以上に将来の自分に遺恨や枷を残すからやめたほうが賢明である。
ここまで書いておいてなんだがおそらく今問題になっている批判は上で書いたような批判ではない。モンスターペアレントやネットの芸能人たたきなどに見える批判は自己に遺恨を残すほどの熱はない。それはもっと浅く笑いや反射に近い批判に見える。
閉じる時間がない、思考を整理する時間がないと上に書いたが閉じて自己を見つめれば批判してもいいことと批判してはいけないことの境目を判断するぐらいの判断力は獲得できるように思う。つまり何が大切かということを。閉じる時間がないから同調し焦燥感に負け反射で批判するようになってきたのかもしれない。
これがコミュニケーションを高速化した。
高速道路に乗っている時にブレーキを踏むわけにはいかない。脇にとめ休んだら後続車に跳ねられてしまうかもしれない。
同様の意味においてコミュニケーションも高速化している。閉じるには意識してサービスエリアに入るしかない。サービスエリアから一般道に出ることはできず進むにはもう一度走り出すしかない。ネットや通信がインフラになった世界でネットを切り離して生活するのは難しい。走るしかない。
走らなければ後続車にクラクションを鳴らされる。場合によっては事故る。走り続ければ閉じることができない。サービスエリアに居続ければ前に進むことすらできず
みんなどこに行きたいんだろう・・・