メロンダウト

メロンについて考えるよ

なんでそこまで本音が大事だと思うのだろう

LGBT差別を告白?した記事とその記事への言及記事を読んでだけど

 

ちょっと前に読んだ「悪の知性」という本に僕たちの生きる現実はインテグラル(統合化)になっていると書かれていた。

概念の推移として神という概念が消滅して現実と対面することになりその現実は情報化によって客観性を帯びインテグラルなものになっていっている。つまり総じて意味や論理が求められるようになっている。客観的現実性としてコピーされ主観にペーストされていく。

そしてさらに次の段階として今度はその客観的現実も消滅して仮想現実(この投稿の中ではインターネット)に人々の考えは設定されていくようなことが書いてあった。当人の身体性や実地的な現実はもはや必要とされない。情報がすべてである。その個人を定義するのは情報だけである。

2008年初版の本だがこの本の中で仮想現実と書かれている問題はここ数年で出てきたポリティカルコレクトネスのことを見事に言い当てたといっていいと思う。

 

 

客観的現実性と実存的現実性には違いがある。

LGBT差別を告白した人の本音は思考の上では差別だが当人がそれを差別だと認識している限りにおいてその差別は現実には立ち現れてこない。つまりいくら本人が差別感情を持っていようとも同量の躊躇があればそれは実存的には差別ではない。

一昔前は本音で書けるところがインターネットのいいところと言われていたが最近はあまり聞かなくなった。人の本音がだいたいにしてろくでもないことが知られるようになったかもかもしれない。

 

しかし人の本音を見つけそれをもって人に絶望するのは違うと思う。インターネットにおける身体と離れた本音はそちらのほうがむしろ仮想である。それが直列的にその個人の現実と=になるかはまったく違う。

 

現実は本音に建前や躊躇や緊張で脚色される。ネットでLGBT差別を本音で告白した人も当人を目の前にしたらその差別をもって相対しはしないだろう。本音をネットに書いて炎上していたがその本音という「情報」は必ずしもその個人の実存的現実を定義はしない。

場を設けられたから本音を言っただけであり本音の内容、つまり極端なことをいうとLGBT差別は情報という形式をとっている限りにおいては問題がない。

問題なのは情報の神格化のように見える。その個人を判断する時に情報を客観的に判断して評価することが現実の消滅ということだろう。情報だけが評価軸でありその情報を発した当人の態度や躊躇はまるで考慮されえない。

 

その情報、客観性によって人を判断する世界はカットケーキのように簡単に、まさに差別することができるがしかし現実はそんな客観的で画一的で一面的な考え方で生きている人は多くない。

ポリコレによって客観的で理想的な人間像がインターネットの世界ではインテグラル化され定義されていくが、差別という本音を「現実に、実存的に」解消するのは至極簡単だ。

 

人に言わなければいい。それだけだと思う。

 

https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A

 

pokonan.hatenablog.com