読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

メロンダウト

メロンについて考えるよ

社会に通用する奴は奴隷化した

シロクマ先生の記事を読んだ。

日本はプライベートでは多様化が進行しているのにパブリックではむしろ画一的になっているという論旨には同意するのだがこの記事へ補足のようなものを書いていく。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

コミュニケーションサービスは画一化ではなく奴隷化である

ここでいうビジネスシーンでの画一化というのは相手に選択権を預けこちらは高度な言語能力を有する自動販売機やsiriのようになるということだろう。

みな同じ服装で同じように礼をし、同じ顔で笑う。そのほうがお客さんにとっては楽だからだ。相手の反応や服装を推察して反応しなくて済むし相手の反応も予想できるのでコミュニケーションは簡単になっていく。こうしてパソコンに向かって文章を書いているようにだ。

人間関係はタイピングとは違い本来、こうして「あ」と入力しても相手は「あ」と受け取るかわからないものだ。例えば失恋した人が目の前にいて相手を慮って「気にすんなよ」と発言したとしても好意的に受け取る人もいれば神経を逆撫でされたように感じる人もいる。そのくらいコミュニケーションは難しいものだ。

 

しかし接客などのサービス産業では実際的な飲食の提供、保険や不動産などもその業務自体より先に、まず最も大事なことがコミュニケーションのレベルにおいてサービスすることだ。サービスというとカタカナ語なのでわかりにくいがserve、つまり相手の奴隷になることが求められる。

そのような主従関係では相互関係におけるコミュニケーションスキルというのは完全に嘘であって、本質的には奴隷になるスキルを求められているのだ。

 

奴隷というのはかなり響きが悪いが実際的に飲食の現場などはほとんどがまさに奴隷化したコミュニケーションによって回っている。そうしなければ一定数怒る客がいるからだ。

ちょっとでもふざけた態度を取ろうものなら本社にクレームを入れられ注意を受けたりひどい時には減給されたりする。僕自身も学生の時に経験がある。

深夜のスーパーでアルバイトをしていた時だ。大学終わりにそのままバイトに入り夜の9時から朝の8時まで働いていた。24時間は寝ていなかったので疲れきっていた朝方。

レジを打っていてあくびを殺せなかったのであくびをしたらお客さんが怒り出した。なんて態度だと。僕も勤務中にあくびをしたことは確かに非があるがそれ以上にそのお客さんは深夜勤務明けの従業員に思いを馳せることができなかったのだろう。

僕を奴隷として見ていたから。

 

そして奴隷が多様化するというのは歴史を振り返って見ればわかるがそんなものは無理だ。多様化というのはずいぶんと高等な概念だ。奴隷が「多様化を」などと叫ぶだろうか。違う。順序だてていこう。

世界中の歴史において奴隷がまず最初に求めたのは自由である。

 

多様化の前にまず自由の裾を広げなければならない

多様化というのは自由の上に立つ

接客中にあくびをするような自由もない現状では多様化などできるはずがない。まず自由だ。なによりも大事な概念だが他人の自由が迷惑だという人間がこの国にはけっこういる。

例えば保険の営業でもきてあくびをしたり、鼻くそをほじくりだすような人間はまずもっていない。僕は見たことないが仮にそんなことをしだしたとしても別に保険のグレードが低い商品を紹介してくるわけでもないし自らに実害もない。はなくそなんかいくらでもほじくればいいのになぜか鼻くそをほじくる人間は迷惑だと考える。これはおそらく嫉妬だろう。幸福な人間に嫉妬するように自由な人間に嫉妬するのだ。

 

子供を連れて笑いながら歩いている家族に怒りちらすのが狂人であるようにあくびをする人間に怒ることも同じくらい凶悪な行為であることを自覚すべきである。他人の自由というのはそれだけ侵されてはならないのだ。法律に触れない限りにおいては。

また嫉妬という観点から見ると、自由というのは相互作用であって自らが自由でないから他人の自由も許せないということもある。

どんなに感情でも人は人の気持ちなんか100㌫はわからない。他人に共感するというのはどれだけ自らの経験や知恵に引き付けることができるかということでしかない。そういった意味で自らの自由の幅がせまいから他人の自由への寛容さもなくしてしまう。

 

上記のスーパーの例でもそうだろう。これから仕事に向かう風のサラリーマンだったが彼は会社に自由を殺されてずいぶん人間的ではないレベルで滅私奉公してきたのか知らないが、それだけ仕事に殉じているから僕のあくびすらも許せなかったのであろう。

「おまえもそれだけ真面目に仕事をしろ」と。

自らと他人の世界線が違うことも知らなかったのだ。それはこれから会社にいく人の前であくびをしてしまった僕も同様ではある。

そうやって他人の自由を侵害していることも気づかずに、自らに引き付けて引き付けて喋る人間ほどなぜか声を大にして誇り高く猛々しく自らの不自由を誇示する。

 

最たるものが「社会は厳しい」などというほぼ戯言に近い言葉だろう。自分の社会が厳しいからといって他人の社会が厳しいという理屈など通らない。

僕個人で言えばいじめられいじられていた中学生のころのほうが10倍は厳しかった。

 

結論

多様化を実現するためにはまず自由だ。そして順番はまず自分が道義的に許される範囲で自由になること。そして他人と自分の世界は違うことを知ること。そうしたらすこしは他人の自由にも寛容になれるはずだ。そうすれば仕事中にあくびをするぐらいの自由は確保できるはずだ。そうしてから多様化は実現できる。

それでも社会的にどうたらなんて糞発言をしてくる自由を侵害してくる人がいたらそんな言葉はすべからく無視すべきである。それがどんな正論で社会的大正義であろうともだ 。

画一化というのは奴隷化であって奴隷化は自由への嫉妬であり嫉妬を解消するにはまず個々人自らが自由になることだ。

多様化は自由の上にたち自由は寛容の上にたち寛容もまた自由の上にたつのである。

 

あまり現実的ではない論理でしたがこちらからは以上です。シロクマ先生

広告を非表示にする