人生相談がばずっていて思ったことについて
一般論として書きたいので記事言及はしないけど最近togetterでばずっていた女優さんの人生相談について。ブクマコメントは毒親に厳しいはてな民らしく絶賛していたが、話の属性で肯定しているだけのようにも見えてしまった。
結論から書いてしまえば断定的な人生相談の回答はその内容の是非に関わらずしてはいけない種類の話である。
どれだけ人の話を親身になって聞いても他人の心のうちは2割しかわからないのは有名です。基本的に他人の内面はわからない。どれだけ本音で話せる親友でも家族でも内心の真実は絶対にわからない。
まずこれが最低限の人の話を聞く時のマナーであってこれが過ぎると老害だとかじじいだとか言われる。
老害は凝り固まった価値観で喋る人間のことを言っているのだろうが、老害が嫌われるのは他人の人生について知ったような口を聞くなというニュアンスが込められているからでしょう。
今では一般に話の内容次第で老害かどうかを決めてしまっているのだが人の人生に断定的な口調で話すのはそれだけで老害であると思う。
それがいかに正鵠を射ていても、である。
こういった断定的な人生相談はいろいろなところで見られていて占いだとか自己啓発なんかもそうだがその全てが内容の如何に関わらず有害だと思う。はっきり言えば倫理にもとる。
キリスト教モーゼの十戒や仏教の教義、あらゆる宗教の教義でも偽りの証言をしてはならないとある。「他人の内心がわからないこと+嘘をついてはいけない」という前提があれば他人の人生にたいして断定的な口調で話すこと自体が善悪を問わず原理的に悪なのだ。
それがいかに世相によって支持されていようが関係ない。またそれがいかにやさしさで満ち溢れていようが関係ない。断定的な回答は原理的にしてはならない。
人の相談にたいして断定的に回答をぶつけるとまれに内心の真実を見つけてくれたと歓喜する人がいる。本人でもわからないことを話してくれたと歓喜する。
しかしそれこそが新興宗教の手口になるギャンブリングと言える。
例えるなら自己啓発や占いも人生相談も頭の上に乗せたリンゴを矢で穿つみたいな話である。
「親のことが嫌いなはずです」なんて言えばリンゴを穿つかのごとく凄腕の弓師なんて賞賛を得るかもしれない。また矢で顔を打たれたにもかかわらず感謝される「かもしれない」。しかし親のことが嫌いなはずなんてそもそもわからないですよね。
不特定多数の人めがけて矢をうちまくればリンゴに当たる人も出てくる。矢が当たった人は頭の上に乗せたリンゴがリンゴだと気づいて喜んでくれるかもしれない。数うちゃ当たる話である。断定的に話せばそれが当たった人の驚嘆や感謝も人一倍である。
しかし顔に矢が刺さって傷だらけになる人もいる。そもそもリンゴが乗っていない人もいるだろう。
けれどそもそもが頭に乗せたリンゴを矢で打ってはいけないんですよ。それがいかに熟練した弓の達人(人生相談では人生の先輩や哲学者)であっても打ってはいけない。
頭に乗せたリンゴに干渉していいのはそのリンゴに手を伸ばせる距離にいる人。
毒リンゴであっても一緒に食べてくれるだけの責任や痛みを伴う隣人だけが人の人生に踏み込んでいい。
それが他者への「倫理」だと僕は思う。