メロンダウト

メロンについて考えるよ

なにが許せないかよりなにを許せるかで自分を語れよ

消滅主義とでも言えばいいのか。2つ前の記事と内容としてはかぶるけれどもはや何かを消滅させることが主張として成り立っていることに違和感を持つようになってきた。

小池都知事都知事選、都議選の時に10のゼロと掲げ花粉症ゼロなど意味不明なことを言っていたことを思い出す。なにか能動的なビジョンを掲げるよりも現存する事物を消滅させることのほうが政治的求心力があるということなのだろう。エビデンスがない概念的価値のみに依拠した事物(タバコや伝統など)は政治的に否定勢力のほうが強くなる。思慮しない正論屋が概念を駆逐する。なんというかつまり日本的な無宗教の価値観がな信仰や概念を認めないのだろう。

歴史の消滅。文学の消滅。概念の消滅。愛の消滅である。

愛することが可能なものだけが可愛く、可愛いと考えられないものは愛することが不可能な社会。それを全体主義と呼ぶのだ。

 

ポピュリズムによる社会の無化、消滅主義は日本では特に際立って顕著だ。最近はてブにあがってきた記事にもリスクゼロという言葉があったがゼロリスク信仰はいまや個人の思想だけではなく政治的、社会的な趨勢としてすら害を及ぼすようになってきた。何もしたくない、何も認めない、何らの客観性を持たない価値観は認めない人が多い。宗教が生活に根付いていなく信仰を意識する機会がないのが主たる原因だろうけれど、この科学的に正しいもののみが力を持ち概念を消滅させていく無信仰的民主主義は日本特有のものだと言っていいだろう。

この意味で僕は文学は政治上死んだと思っている。日本の概念を支えていたのは昭和後期以前は文学であった。文学によって信仰「めいた」ものを見ることができたのだろう。それは人に余白を見る視線だったり劣情を認める態度だったりしたはずだ。今でも坂口安吾志賀直哉の作品を見ればそれがいかに概念的な価値があるかはわかるはずである。文学が売れなくなり衰退したあとには音楽がそれにとって代わった。失恋ソングばかり売れた時代、僕達は人は悲しむ生き物だと思って生きてきた。タバコの紫煙に悲しみを見たり酒に酔う人間に物語を見たものだ。

いまや文学も死に、音楽はテクノやイメージソングなどの音楽的音楽が強くなり文学的音楽はファンによって支持されているだけである。概念を支える音楽も文学もそれらが普遍化されることはない。すべては虚構化された。アニメを見ることは現実とは「別」であり、音楽もツールであり、文学は趣味と化した。

結果として音楽や文学によって支えられていた信仰めいた概念、文学的態度は消滅し、エビデンスだけが残るようになった。タバコは科学的にダメだからダメ、以上終了であるという社会がどれだけやばいのか考えるべきである。概念のない社会、主観的で無根拠な意味づけを許さない余白のない社会は、間違っている。

 

主観的価値は客観性によって規定されエビデンシャリズムやゼロリスク信仰によって収斂されていき、結局、主観的価値は客観的価値と同一化していくだろう。みんなが可愛いと考えるものだけが可愛く、みんなが醜いと思うものは恥でしかなくなる。

コミュニケーションはコミュニケイティブに行わなければコミュニカティブではなく社会人も社会人的でなければ社会では認められない。すべてが一様化、全体化していき、個人の自由が許されるのは個人の環境においてのみである。現実がどうでもよい場所となり金やツールを調達する場所でしかなくなる。飲み会は余計であり事務的な連絡以外はすべてセクハラと呼べるのである。個人の欲望をかなえるのはネットや虚構化されたゲーム、アニメなどになる。虚構のほうが現実と化し、社会のほうが仮想と化す。仮想化した現実はどうでもいい場所なので非出来事性(ゼロリスク)に支配されていく。アニメ的に何が可愛いか、ネット的に何が正しいかで現実を切り分ける今の世相は現実のほうが下位であり、二次的に捉えているふしがある。 

 なんというかリベラルの単純化ネトウヨ嫌煙少子化などあらゆる問題の最も根本的な原因として以上のようなことがあるように思える。

かなり速足でとっちらかった文章なのでいつかまとめて書きたいと思います。