メロンダウト

メロンについて考えるよ

無敵なのは社会のほうである

「1人で勝手に死ね」

登戸で起きた無差別殺傷事件にたいして上記のような発言は加害者の動機付けになりかねないから自重せよといった記事を読んだ。

今回の事件が無敵の人と関連して語ることができるかはわからない。容疑者が死亡している以上、憶測でしかない。なのでここで書く無敵の人に関する考察は事件とはおおむね関係ない。ネットの意見を読んでいて無敵の人という人物像にたいしてなにか違和感があるから書いてみようと思った次第である。

 

さて、人と社会との関係がいかに犯罪の動機付けとなるかその個人の思考の内部までのぞきこまないと知りようがない。犯罪の動機はおおむね人々を納得させるために社会から求められるものでしかない。今回の事件に関して言えば犯人を無敵の人という人物像でくくることによって事件を解決するのではなく自分を納得させたいという「欲求」が働いているように見える。すべての動機は憶測でしかありえない。本人が動機を述べたとしても全く別の無意識な衝動によって動いていたこともありうる。

ではなぜそれでも僕達は無敵の人を語りたがるのだろうか。

「およそ語られうることは明瞭に語られうる」ということをウィトゲンシュタインは書いている。多くの人が無敵の人について語るのは無敵の人になる思考回路が自分の中に内在しているからだと考えられる。その思考回路は社会にたいしての違和感である。

実際、この社会はなにかがおかしいと感じることは多々ある。一般的な人々にとってはその社会と自己のズレは小さく許容できるものである。しかしもっと強烈なズレを感じている人にとっては犯罪を起こす動機になりうる。

 

ならばこの社会の何がおかしいかについて明らかにしなければならない。「社会がおかしい」という言説は幼稚な発言だと一蹴されてきた。解決すべきは自分の環境であり自分の問題であるとすべての責任を個人におしつけてきた。実際、これだけ自由で開かれた社会において個々人が抱える問題は個人の責任だというのは妥当である。しかし個人で解決できる問題は具体的なことに限られる。お金、身近な人間関係、仕事、生きがいなど個人で解決できる問題は個人で追うべきなのは間違っていない。

しかしもっと抽象的なレベルでこの社会を見た時、社会がおかしいというのは確かに言えると僕は思う。

抽象的に、メタな視点で社会を理解することが社会とのズレを視認することに繋がる。社会が敵だと感じるのであれば敵を認識することで戦略をたてられるはずである。

 

ではこの社会と人との関係でどういったことが相互的に作用しているのか。示唆に富んだアニメの場面がある。

化物語というアニメのワンシーン。羽川翼という典型的ないい娘、学級委員で成績抜群、メガネをかけ三つ編み、会話もそつがなく思いやりがありどこまでも正しい娘と彼女の両親との関係を語ったシーンである。

 彼女は実の親と離れて血の繋がっていない義理の親と暮らしている。その義理の親に殴られ虐待されていて怪異(呪いのようなもの)にとりつかれるようになった。

子供が親に虐待されていると聞くと僕達は当然のように親を糾弾する。しかしこの場面では虐待されている羽川翼の責任を語っている。羽川翼が善良で正しい人間だから親にストレスが溜まり娘を殴るようになったという見方をしている。かなり考えさせられる視点だ。

正しい人間(羽川翼)のそばにいることは自らの邪悪さを認識させられることになる。だから「正しい人間は自らが周囲に与える影響について自覚的であるべき」と語られている。


猫物語 忍野メメ、羽川翼を語る 「あるのは正しさじゃなくて都合だ」

 

このシーンは人と人との関係を語っているシーンであるが同様のことが社会と人との関係においても言えるのではないか。

 

 

正しすぎる社会は適応できない個人にとって生きづらい世の中であると言える。僕達は社会が間違っていないと考えるのであれば個人が歪んでいると結論づける。自己責任論の論拠は常にここだ。なにをするにも自由で努力をすれば達成できる社会において何も達成できない個人はその個人の能力不足であるゆえに自己責任であると自己責任論者は言う。

正しい社会に反論の余地はなく改善の余地もない。なぜなら正しいからである。しかし人と人との関係性が常に相対的であるように社会と人との関係も相対的なものである。

そう考えたとき正しい社会ということはメタなレベルにおいて正しいのだろうか?

 

 相対的な価値基準においてある正しさを基準として設定すると必ずそこから漏れる正しくない個人が生まれる。卑近な例で言えば僕はタバコを吸う。この行為は正しい社会から見れば正しくない。実際、吸っていることに負い目を感じることもある。タバコの煙は他人に吸わせるものではないということは正しい。だから分煙社会も正しい。僕自身そうだと思う。しかしそう思うことは同時にタバコを吸っている正しくない自分を認識することになる。自分はタバコを吸っている。だからタバコを吸っている自分は正しくない、と。

タバコのように軽微な物事であればどうでもいいが、他にもたとえばLGBTなどがいい例である。異性愛を前提とする社会ではLGBTの方達は同性愛等は社会から正しくないと言われてきた。性という人間の最もプリミティブなことに関して社会から否定されるのはとてもつらいことだろう。

この2つはわかりやすい例であるがもっと抽象的な例でいえば

夢を持って頑張っている人は夢を持たない人間に劣等感を与える。仕事をしているのが正しいのであれば仕事をしていないことは正しくない。結婚していることが正しいのであれば結婚していないことは正しくない。幸せな人は幸せでない人を浮き彫りにする。

夢、愛、幸せ。完全にポジティブな価値観だと僕達はとらえがちだが夢も愛も幸せもそれをポジティブだと語った瞬間に、逆説的にそうではない人々の承認をはぎとることになる。夢も愛も金もない個人は正しくないと僕達が考えるのは夢と愛と金を持っているのが正しい人間だとほとんど無意識に内面化しているからだろう。

そう考える人間の言動は今回の登戸の事件のニュースの端々にもあらわれている。容疑者は小学校時代どんな子だったのか、仕事は何をしていたのか、家族関係は、と具体的な質問はいろいろあれどそのすべては一貫して「彼は正しい人間だったのか」ということに終始している。

そういう質問を繰り返し報道していると彼は正しくない人間だから事件を起こしたと見ている視聴者は納得するだろう。正しい人間じゃないから正しくない行為をしたんだと正しさの型にはめて処理する。

 

人間関係は常に相対的だ。それは人と人でも社会と人でも変わらない。人に迷惑がかからないように思える夢や愛や幸福なども誰かの嫉妬をかきたてたり劣情を持たせたりする。人の幸せを見て歪んだ感情を持つなんてその人は未熟だと僕達は思う。しかし僕達がそう思えば思うほどに歪んだ感情を持つ人により強い劣等感を植え付けることになる。それでも夢を追い、愛を探し、幸せになろうとする以外に生き方などない。ならばせめて自らがそれらを獲得できた幸運に関して「自覚的」であるべきだ。

 

人と人が関係しあう社会において正しさという相対的なものではかることはメタに見れば正しくない。不完全で多様な個人である僕達はその正しさを否定することができないからだ。

無敵なのは人ではない。因果関係が逆だ。正しい社会は無敵であるゆえに人もまた無敵になるのだ。

 

地下室の手記 (新潮文庫)

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