シロクマさんの記事を読んでて思ったんだけど
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190712/1562932800
おっさんは臭いから清潔な社会では忌避されるって文章。そのためにおっさんは臭くないようにケアしなければならない社会であるといった論旨だった。
以前、父の友人の家に行った。50年ぐらいは建ってるのかってほど古い団地の一室に奥さんと住んでてそこで一泊したんだけど家の中がけっこう臭かった。その場で言うことはなかったけれど部屋に入った瞬間に強烈に臭いと感じた。木材が腐敗したようなにおいというかなんとも言えない臭いがした。
しかしそこで思ったのが、自分はこのぐらいの臭いにこんなに過敏に反応する人間だったのかってことだった。
公園の公衆トイレ、電車で隣になった人の加齢臭などでも感じることがある。自分はこんなに臭いの耐性がない人間だったのだろうか、と。
学生時代、運動部に所属していたので部室の臭いなども経験済みでそれに比べれば父の友人の家も加齢臭も定量的にはそれほど強烈なにおいではないはずだ。
しかし今、いわゆる「清潔な社会」で生きている自分にとっては当時の部室の臭いよりも加齢臭などのほうが強烈にくさく感じる。
駅の公衆トイレにしてもそこまで嫌だとは感じなかったはずなのに、今はそうではない。
自分の経験から比較するに、清潔な社会で生きていて臭いにたいする耐性がなくなったのだと思う。
くさい場所が社会から排除されていってくさい場所で生きる経験がなくなっているので相対的にかすかな臭いも強烈に感じてしまうようになった。いつから自分はこんなに神経質になったのだろうかと軽く自己嫌悪するぐらいにはそう感じている。それは環境的な要因が強い。
においもそうであるし、あるいは人格さえもそうなのかもしれない。
無臭の人間、無臭の人格を持った(あるいは見せている)人ばかりが社会にいるように見えれば相対的に有臭の人間は忌避されるようになる。それはシロクマさんがおっさんの挙動などが忌避される対象だと書いていることと同様の意味を持ってそう言うことができる。
この清潔な社会で適応して生きるには原則としてジェネラルでいる必要がある。ある程度普遍的な人間のスタイルを保持しながらそこに軸足をかけてのみ逸脱することが許されている。それは別に今の清潔感が至上とされる社会ではなくとも規範意識や法そのものが人間に課すものなのだと思う。
今はそれが無臭で無謬な人間だというだけなのだろう。だから僕自身は今の清潔感至上社会がそこまで問題だとは思っていない。何がマジョリティーでどういう趨勢がこの社会において支配的なのかは必要であり、その点において清潔感はベターな価値観ではあると思う。
僕が問題だと思うのは世界線の消失のほうである。コミュニケーションコードと言い換えてもいい。あるいはコモンセンスなどとも呼べるかもしれない。
別の臭いを持った個人、別の考え方を持つ個人、別の性を持つ個人が生きるのが社会である。その関係は繋がれてこそ社会として成立しうる。清潔な人間だけがいる集団は清潔村であり、おっさんだけがいる集団はおっさん村である。そこを繋ぐ何かコードや共通感覚が本来は必要であるが、今はクラスタごとにバラバラになっている。
富裕層は六本木に、貧困層は西成に、女子高生は原宿に、フェミクラスタ、ネトウヨクラスタ、はてなクラスタなどなどそれぞれが島になっている。
それ自体は自然なことであるし友人や恋人レベルの話で言えば価値観が合うもの同士が集まるのは当然だ。しかし価値観の違う人同士で話ができないというのはおかしい社会であると言える。今は価値観が違う人が話ができない状態に見えている。くさいおっさんとかわいい女性がたとえ話をしなくとも話が可能な場所をどう構想するかが社会を考える時の条件だったはずだが、すみ分けるのが正しいと思われていることに違和感があるのだ。無干渉は決して正しい方策ではない。
ヘーゲルなどはバラバラの個人がコモンセンスを持つには国家という概念が機能すると書いていたけれど、今の僕達は国家にたいする帰属意識はそれほど持っていない。
国家も機能していないし、ネットはクラスタ分けされていてそれぞれが好きな人同士で集まってむしろ閉じてきている。
だから僕達は他人の臭いを異臭だと感じるようになり、神経質になっていくのではないだろうか。異なる人間を同じ世界に生きる人間だと感じる身体的能力、共通感覚、コミュニケーションコードの欠如こそが問題だと、僕なんかは思う。