メロンダウト

メロンについて考えるよ

ガースー独裁政権~Go to トラベルと小選挙区の欠陥~

利権利権利権。

いつまでGotoトラベルやってるんだこれ。年末年始はストップするみたいだけど追加予算組むとか馬鹿げたことになってるし

news.yahoo.co.jp

そもそものそもそも論としてGotoトラベルに意味があるのかかなり疑問なんだよね。というかこれ根本の問題はもっと根が深いように見える。

コロナが流行り始めて国内旅行もインバウンドも壊滅したころは確かに観光業界は最も打撃を受けた業種なので一時的にでも旅行を奨励するような政策には意味があったんだろうけど。これだけみんなコロナに「飽きてる」状態で普通に生活している人が多数いるなか観光業界だけに金をばらまくのは不公平であってもはや単に利権の話にしか見えなくなってる。

たとえばGotoトラベル(宿泊割引)が使えない旅行でキャンプがある。キャンプはみんなもう普通に行ってるし土日だと予約がいっぱいではいれないキャンプ場もあったりする。自分もキャンプをやるんだけどそんな状態を見ているとGotoトラベルが旅行を奨励する効果はもうないんじゃないか、そう思わざるを得ないのだ。

良いか悪いかは別にしてみんなもう普通に旅行に行くようになってる。なので観光業界だけを特別に支援する理由がもう消滅してる。インバウンドが回復してないってのは確かにあるけれどどこの業界もジリ貧のなか観光業界だけをコロナ以前の状態にしようとするのは悪手だと言わざるを得ないだろう。なら国民全員に再度10万円を配るなどしたほうが良い。

それに上に書いたようにキャンプ場で使えないことやもともとの値段から35%といった割で値引かれるためGotoトラベルは富裕層の贅沢旅行を支援するものになっている。その点で逆進性が高く政策としてはもうはっきりと駄目だろう。

さらにネット上でクーポンを発行してそれを使用するという形態にしてもリテラシーによる差が生じるために逆進性が高く格差を広げる結果になっている。

 

以上3つの理由

・観光業界だけを支援する理由がもうなくなっている

・キャンプ場で使えない点などから逆進性が高い

リテラシーによる格差が広がる点でも逆進性がある

これらの理由からもうGotoトラベルは完全にストップするべきで、ガースーは国民にたいして「旅行に行く時は感染対策に配慮して行ってください」と言うだけでいい。それで国民は普通に旅行に行く。実際行っている。

そう言うだけでいいはずなのに政権はGotoトラベルをやめることができない。その理由のほうがけっこう根が深いように見える。インバウンドの分の売り上げが無くなっているのはあるにせよ地方の多くが観光産業に特化しているせいか地方を選挙の地盤にしている政治家は地方にたいして痛みを伴う選択をとることができない。

その点で小選挙区制の欠陥みたいなものがもろに出ているのがGotoトラベルと言える。極論すれば政治家は自らの選挙区の支持を得られればそれでいい。どんなに国に不利益をもたらそうが自らの選挙区に利益をもたらせばそれでいい。政治家としての戦略からすればそういう動機しか持ちえない。国民全体に支持される必要などない。それが小選挙区の欠陥だと言える。

国民全体のことを考えるべき国家なのにそれぞれがそれぞれの選挙区のことしか考えていない。だからGotoトラベルは続けられる。そういう構造になっていると考えるしかない。もはやこれだけ不合理になったGotoトラベルを続けるのはどこかに別の動機があってそれが地方の利権なのだろう。そしてその利権構造をつくっているのは小選挙区制であって国家の論理は地方の利権に勝てないということを如実に表しているのがGotoトラベルだと、つまりはそういうことなのだろう。

国政選挙は国家を運営する議員を選ぶという建前になっているがその実、やっていることは地方の代表を選ぶという点において国家の運営はねじれてしまう。その意味で今般のGotoトラベルのように政治的な決定は常に地方の論理において行われることになる。そういう土着性及び「小さい利権」が政治には常にまとわりついている。だから不合理な決定がたびたびなされる。

東京一極集中と、民間ではそう言われているけれど政治がその現実を繁栄することは小選挙区制が維持されているかぎり無いだろう。そのねじれが良いのか悪いのかは別に議論するべきだと思うけれど悪いほうがもろに出てしまった。

それがGotoトラベルだと、それはおそらく間違いない。

そして国家の論理=支持率を見てGotoトラベルを年末年始ストップしたガースーは二階派にとって独裁政権のように見えると

dot.asahi.com

酒を規制しろ~テキーラ事件を見ていて~

40度のテキーラ750mlを15分で飲もうとして(飲まされて)亡くなった事件。M氏がくそ野郎なのはもういろんなところで言われているからここであえて書くことはしないんだけど
この手の急性アルコール中毒によって人が亡くなるのはずいぶん昔から言われているのになぜ具体的な対策がなされないのか、それが不思議でならないのだ。今回の事件を知った時にテキーラ750mlを一気飲みなんかしたらいや普通に死ぬだろとまず思った。馬鹿なのか?と。しかも報道によるとその場に11人も人がいたわけでしょ。誰一人として死ぬ可能性に思い至らないって・・・飲ませた本人に重大な責任があるのは当然にしても誰も止めなかったのが異常すぎる。しかもその後倒れてたって酩酊期を超えて昏睡期になってた可能性があるってことでしょ。倒れてたら呼吸回数が少なくなってないかどうか確認して万が一のために救急車を呼ぶべきだった。ましてやテキーラを一気飲みしたのがわかっていればなおさらだよ。そんなことも知らないでお酒を提供している店がたくさんある今のような状態ははっきり言って異常すぎる。
女性なら致死率にしてかなりの数字になるんじゃないかな。華奢な人だったみたいだしアルコールを分解する為の筋肉も少ないのは容易に想像がつく。テキーラ750mlってことは缶ビールだと10本以上を15分で一気に飲んだってことでもうなんでいつまでたってもこの手の事件事故がなくならないのか。


もうお酒を提供する店にたいして法律で厳格に縛ったほうがいいよ。そう難しい話でもないでしょ。一人あたり5杯までにする、度数×量で縛る、エタノール含有量に制限をかける、(急性アルコール中毒になるのは体が拒否反応を示す前に短時間で飲むのが原因なので)時間制限を設けるなどなんでもいいけれど急性アルコール中毒になるような提供の仕方をそもそもできなくすればいい。

あとは今の飲酒運転みたいにいきすぎた量を提供して客が急性アルコール中毒になった場合は店に保護責任を課したり、もしくはもっと厳格に自動車の免許のように講習を義務化して免許制にしてしまってもいいと思う。
今の状態は言ってしまえば薬剤師がいない薬局みたいなことになってるわけでこれほど危険な状態をいつまで放置してるのだろうか。用法も用量も適切に処方してこそ薬は薬として機能するわけでなぜ酒が自由に提供されているのか。かなりカオスな状態。お酒も体に作用する薬なのに自己責任で薬は処方してくださいというとんでもない状態なのは改めて考えるに相当おかしなことだよ。今回の事件では当然ながらその責任の多くはM氏にあるわけだけど、これまで何人も似たような事件事故で無くなっているのに何も変わらない環境にも問題はあるだろう。
今回明らかになったのはその点で高級ラウンジの人間でさえ急性アルコール中毒に無警戒だったことだ。今後似たような事件事故を起こさないためにもこの無警戒な現状をむしろより大きな問題と考えるべきではないか。当然ながらM氏はクソ野郎なわけだけど責任と原因がないまぜになっているというか責任を追及できるだけの原因構造がないことがおかしい。まず法制化して酒を規制するべきだろう。


酒の規制の話になると必ずアメリカの禁酒法をひきあいに出す人がいるけれど、製造や販売及び流通すべてを禁止した禁酒法とアルコールを部分的に規制するのはまったくフェーズの違う話だろう。車の販売を禁止するのは悪手だがスピード違反を取り締まることはすべきだと、ただそれだけのことでしかない。お酒に関しては相当緩めに規制しても急性アルコール中毒にたいして効果があるはずで、普通に飲んでる人にとってはおそらく今と何も変わらないはずだ。普通、急性アルコール中毒になんかならないんだから。普通に飲んでいて飲み過ぎていれば必ず体が拒否反応を示す。そうなる前に一気飲みしたり度数の高いお酒を大量に飲んだりするから不幸な結果になってしまう。そんな馬鹿なことはもう二度と起きてほしくない。
結論として酒は規制したほうがいい。女性を急性アルコール中毒にしてもなんの罪にも問われない可能性がある今の状態はやはりおかしい。M氏は誰がどう見ても悪人だから刑罰をつくれという単純な話ではない。刑罰が適用できるようなルールをまず敷いたほうがいい。そのうえでルール(法律)を無視した人間にたいして刑罰を科すべきで、無知が許されている今のルール無しの環境こそをまず問題視するべきではないか。

 

PS アドセンス自動にしてるんだけどなんか荒ぶってるのごめんなさい

カント的差別論~人の業と感性・悟性を忘れたインターネット~

anond.hatelabo.jp

ダブスタは受け入れるべき批判だろう

まずここから認識が違う。ダブスタは受け入れるべき批判、ではない。

ダブルスタンダードという批判は間違っている~嘘をつけない社会がつくる嘘の社会~ - メロンダウト

 

人間は業深い生き物で経験によって全体を把握してしまうことがある。あるいは全体によって経験を批判することがある。しかしそれはどちらも間違っている。経験と一般論は分けて考えるべきだ。それがカントが言っていた認識論の一つだけど

人は感性(直観や経験によって得られた表層)と悟性(表象を共通の表象のもとに秩序づける働き)によって物事を認識する。人間の認識は原理的に二層構造であってその点でダブルスタンダードといった批判は批判になっていない。原理的に人間はダブルスタンダードな生き物だからだ。

みな知っているはずだ。経験によって得られた先入観とも言える業によって好き嫌いを判断する。それを差別だと言えばほとんどの選択が差別になってしまう。普遍的な非差別論を感性に適用しようとすれば恋愛ですら差別になる。だから僕達は感性と悟性を分けることによって生きていくことができる。

個人の業は個人の感性の中に留めるべきであってそれをその個人が持つ悟性だと、一般論として批判することは間違っている。人間は二面的な生き物であって経験論と一般論をまったく別のフェーズとして使い分けていいし使い分けるべきだと言える。なればこそ僕達は差別をせずにいられる。あるいは、なればこそ僕達は自由でいられる。悟性や一般性、普遍性によってその人の感性を批判するのは明らかに間違っている。それはその人の体験でしかない。

その点で誰もが差別感情を持っていると自覚しろといったコメントがスターを集めていたけれどすこし足りないと思う。誰もが差別感情を持っていてもかまわないけれどそれは「感性」としてのみ持つべきであって自分が差別感情を持っているからといって差別主義者だと自覚する必要はない。むしろそういう感性的な判断を差別論として過度に一般化することのほうが問題だろう。

 

人間には悟性があるので経験的表層を全体のものとしては適用しないことができる。なので『差別「的」発言をしたうえで差別していない』はダブルスタンダードでありながらまったく矛盾せずに成立する。言葉は表層でしかない。表層でしかない感性的発言を悟性的発言として受け取ることのがむしろ問題であって、ゆえんみんな言葉を聞き過ぎている。

経験によって得られたものを全体に適用して発言するのを差別だと、上記の増田では言っているけれど経験的な言説を一般的に受容(聴き取る)することのほうがおかしい。経験はそれ自体が経験論でしかない。それは厳密に分けて考えるべきであろう。さもなければ僕達は全員が自らの体験を語ることを許されなくなってしまう。それがカントから受け取るべき最大の教訓だと思っている。人間は原理的に矛盾した生き物だということを前提に話したほうがいい。もちろん差別的発言がイコールで差別発言だという人はいるしそれはその人の差別感情の問題として批判されるべきだけど、そうではない種類の言動までも差別発言として聞くことはこちら側(聞き手側)の問題だろう。人はそれほど一貫した存在ではないと思って人の言葉を受け取るべきだ。

 

それはcakesの炎上案件にも繋がっていて自殺をテーマにした連載が炎上するかもしれないとcakes編集部から連載を断られた案件があった。

note.com

これもカントが言っていた矛盾を前提にしないで考えているインターネットの問題が大きい。編集部はただ適応しているに過ぎず、むしろそれを許さないインターネット側(聞き手側)こそを問題にすべきだと思っている。インターネットにセンシティブな話題を乗せると「聞き過ぎる人々」がいっぱい出てきて炎上する。自殺などもその一種であるが、それはcakes編集部の問題ではなく僕達インターネット側の原因と考えることもできる。発言が問題なのではない。受言こそが問題の本質だったりする。つまり感性と悟性がないまぜになった結果、人の感性を僕達は許すことができなくなってしまったのだ。ダブルスタンダードという定言命法によって。

上記増田のようにネット民は誰かのダブルスタンダードを見つけた瞬間に批判が成立したかのように思う。僕は全然批判になっていないと思うけれど、批判的図式のうちに「ハマル」から批判として成立しているように見えるだけでその図式がすなわち正しい批判とは限らない。むしろこのような批判が批判として成立している状態(ダブスタが許されない状況)こそが批判されるべきだと思っている。

ダブルスタンダードは定言的にダメだ」といった批判は成立しない。なぜなら上に書いたように人は感性と悟性によって二面的に物事を認識するものだからだ。

人の言説は仮言的に判断するべきであってどういった言動であれば批判するのか諸所の条件によって個別に考えるべきである。ダブルスタンダードといった定言命法によって形式にはめこんで批判するのは形而上学的(経験や感性を超えた普遍性)なものでしかない。そうやって批判されうるものがすなわち差別だということにはならない。むしろ批判されるべきはそう受け取る側であったりする。

 

僕達は発言に気を付けると同時に言葉を受け取ることにも気を付けなければならない。なぜならそれほどセンシティブに他人の感性的発言を悟性的に受け止めれば世界は地獄にしか見えなくなるからだ。人が差別的発言をしたとしてもすなわちその人が差別主義者と直列するわけではない。人の思考は並列しているからだ。平たく言えば人の言うことをそれほど真に受けないほうがいい。優しい言葉を使う人間がすなわち優しいのではないのと同じように差別的発言をした人間がすなわち差別をしているとは限らない。その人が優しいかどうかはこちら側がどう思うかというパラメーターによってどうにでも変化してしまう。それは差別に関しても同様だろう。

という事件が前にもあったなと思い出したので貼っておきます。

plagmaticjam.hatenablog.com