メロンダウト

メロンについて考えるよ

揚げ出し豆腐とツイッターの公共性

イーロンマスクがツイッターを買収してからというもの、巷では「ツイッターの公共性」について喧々諤々議論されている。

ここ数年でツイッターはインフラにまでなったと言われる。災害時における情報ツールとして公共性が付与され、いまや民主主義を支える基盤になっているとまことしやかに言われている。しかしながら私企業が民主主義を体現するというのは危険極まりないようにも思う。

ツイッターのトレンドも左巻きのメディアばかり取り上げていたようであるが、印象操作を行っているメディアを民主主義と紐づけて考えるのは完全なる間違いであり、それは先の選挙で立憲民主党が「勘違い」により敗北したことからも明らかではある。

 

・日本政治とツイッター

ここ数年の野党、特に立憲民主党はリベラルという理念を手放しツイッターの即時的な反応、つまりいいねやリツイートに迎合する形で党としてあるべき姿を見失ってきたように見える。それはツイッターにいるフェミニストやリベラル派と呼ばれる人々の声が大きく、数として無視できないものになったためだとも言えるが、しかし日本におけるリベラル勢力は穏健左派のほうが主流であり、共産党的な革新リベラルはもともと少数派である。ツイッターで様々なことを言っているフェミニストやリベラル派は文字通りのマイノリティーであり、彼らの言うことを一から百まで聞いていれば党自体がマイノリティーになることは明らかではあった。フェミニストやリベラル派がツイッター上でハッシュタグデモなどを行い野党第一党を換骨奪胎することで自民党に有利な政局へと誘導してきたという点ではツイッターが民主主義を間接的に動かしてきたと言って良いだろう。

 

こうした構造はツイッターだけで起きているわけではない。SNSを使い民衆を動員することで泡沫政党も誕生してきた。N国、参政党、ごぼうの党はYoutubeやインスタグラムなどのSNSが無ければ出てこなかった政治スタイルであり、どの党もまともな党であれば言わないことを針小棒大に取り上げ支持者を先鋭化して票を集めてきた。それはSNSが持つ元々の特性であるエコーチェンバー機能と相性が良いからこそできたことなのだろう。

SNSが小さな「先鋭圏」を築き上げそれがまったくバラバラの形で人々を集め民主主義を細分化するというのは、近代になって始まった民主主義の新しい条件だと言える。しかしそうした細分化に付き合っていると、当然ながら政権奪取を行うほどの強い野党は出てこず、各党は先鋭化した支持者に引きずられていく形になる。アメリカのような二大政党制ならまだしも日本のように多くの野党が乱立する状態では、SNSの細分化がそのまま野党の細分化に反映されることになるのだろう。ようするに日本政治とSNSは相性が悪い。野党の乱立と多党化は多様な意見の反映という点では民主主義的とも言えるし、そうした意味ではツイッターが民主主義を体現しているとも考えられるかもしれない。しかしながら現実的に考えた時、民主主義が多数決である以上、小さな党が乱立しても政治的な影響力を持ちえない点から多様な意見を多様なまま反映するSNS政治は結局のところ自民党一党独裁へと帰結するだけなのであろう。

 

 

・日本社会とツイッター

日本政治とツイッターの関係は上記のようなものだと考えているが、しかし何故ここまで政治的議論においてツイッターの影響力が高まったのかについては別に考える必要がある。

日本社会にあって政治的な話は今でこそそこまで避ける話題ではなくなっているけれど、すこし前までは日常会話では危ないテーマのひとつだった。それこそみなが多様性を事前に内面化しており、他者の政治的立場が何であるかを問い、その妥当性について議論することは行ってこなかった。政治が議論されるのはメディアや大学など特定の場所でしか行われず、日常的な場面ではほとんど不可視化されてきたのが日本社会である。

しかしやはりみな生活と直結する政治には関心を持っているため、どこかに吐き出す場所が必要で、それは懇意にしている人などの私的空間に限定されてきた。他方で社会空間において政治の話を振るのはあまり推奨されてこなかった。言い換えれば日本社会には公共空間は存在していなかった。

私的空間でのみ政治を語り、社会は政治を不可視化していた折、そこに出てきたのがインターネットだった。そこで始めて社会に政治が可視化されるようになったのが日本社会なのだろう。日本社会における公共空間の無さ、その溝にツイッターがすっぽりとハマったのである。今までは他者と政治を語る場がなかったけれどツイッターが出てきたことで見知らぬ他者と連帯したり衝突するようになり、その仮想空間を疑似的に公共圏として採用してきたのが日本社会なのだろう。社会的安全性のため、誰もが政治的なテーマを避けて暮らしていたけれど、そこに匿名・顕名で使えるSNSが出てきたことで安全性が担保され公共空間が出来上がった。もちろんツイッターが公共空間になったとはいえ疑似的なものに過ぎないとも言えるが、しかし無いよりはマシであるため皆がそこに集まり、最終的にツイッターが民主主義を体現する公共空間とまで言われるようになったのが現在なのであろう。

つまるところツイッターが公共空間でありインフラであるというのは日本社会の公共圏の無さにたいするバックラッシュなのであろう。

しかしながらやはりインターネットは仮想空間の域を出ない為、その「仮想性」「疑似性」ゆえに、時として立憲民主党のように民衆の意向を勘違いしてしまう政党も出てくる。

 

 

こうした問題にたいする答えは簡単で、現実的な場面で政治の話をして公共空間をつくるのが良さそうではある。しかし今や政治どころか恋愛の話もタブーになりつつあったりしてなかなか難しい話ではある。

なのでまず今日の夕飯の話をしよう(脈絡どこいった)

今日は揚げ出し豆腐にしようと思ったのでヤングコーン、ししとう、片栗粉を買ってきた。ししとうとヤングコーンは素揚げ、絹豆腐は片栗粉で衣をつけて揚げ、甘辛いタレ(酒、唐辛子、砂糖、醤油、みりん、片栗粉)を絡めて食べると美味しくて得意料理だったりするのだ。贅沢にいく時はカキフライも追加して食べると尚美味しくいただけます。

借り物の自由を子供に与える人々

不登校Youtubeとして話題のゆたぼんがたびたびネットニュースになっている。学校に行かないという生き方にたいしてはやはり賛否両論あるみたいでいろいろな人がゆたぼんに言及している。ゆたぼんの父親にたいする批判、ネット乞食だというものまであった。

 

ゆたぼんはもう初等教育をふいにしてしまっているみたいなので好きに生きるしかなくなっているのだと思うけど、個人的に気になったのが学校を監獄のようなものとして捉え自由との二項対立にしてしまっている点である。

ある種の規範や権威を取り上げそれがいかに不自由かを説き、そこから自由になろうというのは自己啓発における定型句のようになっていてけっこう陳腐な話ではあるのだけど、規範と自由を二項対立にし、それを子供に植え付けるのはやはり罪深いように思う。

 

ゆたぼんが言っているように学校が規範まみれで子供にとっては監獄のような場所だというのは一定程度事実ではあるのだろう。僕も学生時代にはそのように感じることがあった。古くは尾崎豊が『卒業』という曲で「この支配からの卒業」と歌っていることからもわかる通り、学校が支配や規範に満ちた空間であるというのはかなり一般的な感覚ではありそうだ。

 

また、学校教育で教わる学問についても多くの人にとっては無意味なのかもしれない。義務教育を受けた人はみな学校で英語を教えられるのに実際に英語を喋ることができる人は少ない。英語を仕事に活かし自らの生活の糧としている人はもっと少ない。数学、政治経済、歴史などの科目も覚えていない人のほうが多いぐらいではないだろうか。

ではこのような規範まみれで将来的には忘れてしまう知識を教えられる学校という場所には行く必要がないのだろうかという問いが当然出てくる。それはもう随分昔からあるありふれた問いだ。個人的な意見だが、こうした問いにたいし答えるのであれば「自由になりたければ学校には行ったほうが良い」と、そう答えると思う。

 

自由になりたいと考えているのはゆたぼんだけでなく、実存を自由へ開いていくというのは、現代人にとって最も広く共通する悩みであるように思うが、それゆえに人を自由へと駆り立てる言説は広く頒布されてもいる。しかしその多くはプロセスを問題にせず、できるだけ短時間でストレートに自由へと到達することを喧伝していることが多いように見える。

個人的な意見だが、自由になるためには自らが何にたいし不自由なのかをまず知る必要があると思っている。人が持つ不自由はそれぞれで、たとえば毒親のもとに生まれた人にとっては家庭が不自由だということ、まずそれを知る必要がある。いじめ、ハラスメント、ブラック企業、貧困も同様だと思う。そうしたものからは逃げ出したほうが良いことだってある。けれど大事なのはその不自由を不自由だと自らで正しく認識することなのだろう。

ゆたぼんは父親の影響で学校が不自由な場所だと最初から断定してしまっているように見えるけれど、そこには一切のプロセスが抜け落ちている。それだけが問題で、不登校という結果はどうでもよく、そこに至る過程の欠如のほうがはるかに重大な問題であるように見える。一言で言えばゆたぼんは自らが何にたいし不自由なのかを実のところ何も知らないのではないだろうか。

 

自己啓発書を読むように、他人の物語を再帰的に自己解釈することで仮想敵を想定し、あらかじめその場所は不自由だからと判断することで「最初から学校のような規範から離れてしまう」というのは、何が不自由かを判断する経験が欠如している点から、その自由は空想になってしまい、自由としての「実」を持ちえないように思う。

学校が不自由な場所だというのは、事実としてはそうなのだろう。しかし学校は「不自由を練習する最初の場所」でもあって、その不自由の上に自由が屹立するというのが、おそらくだが自由の成立過程であるように思う。自由は単独でたっているわけではなく、規範があるから自由があるし、自由のためにこそ規範が必要となる。そうしたギリギリのバランスの上にたっている危ういものが自由であり、規範の伴わない自由はいずれ瓦解してしまうだろう。ものすごくベタに言えば無職で飲む昼ビールは美味しくないみたいな話である。

ゆたぼんには親から与えられた「理念としての自由」はあっても「経験としての自由」がない。この意味で、ゆだぼんがよく問題提起として言っている学校が本当に不自由な場所かどうかという議論はさしあたりどうでもよいことである。むしろ不自由な場所だからこそ自由になるために行ったほうが良いし、学問についても同様に何を知らないかを知るために行ったほうが良いと、僕ならそう答えると思う。

 

 

厄介なのが、こうしたゆたぼんの「一足飛びの自由」を自由になった大人が擁護するという構図である。自由になった大人というのは傑物であることは間違いなく、僕のような不自由で凡百な個人よりはるかに優秀な人間なのだろう。たとえばゆたぼんを擁護している茂木健一郎さんも、知識一辺倒の学校教育を超克して自由になるべきだといスタンスからゆたぼんとゆたぼんの父親を肯定しているのだと思うけれど、茂木さんのような規範を超越した稀有な個人とまだ子供であるゆたぼんとでは同じ自由を言っていてもその中身やフェーズがまったく違うものになる。誰もが茂木さんのように知恵を駆使し自由になれるわけではない。むしろ不自由の中で一時の自由を享受するのが多くの人々である。

そうした人々に自由を説いても自由のほうが逆に監獄になることがある。たとえば一昔前にも「自分探し」や「何者かになりたい」という実存の自由が叫ばれていたが、それに影響された人々も結局のところ自由にはなり切れず、不自由と自由の二足の草鞋を履き人生を歩んでいくことを選択してきた。

自由から不自由へ、不自由から自由へ、その反復横跳びだけが多くの人にとっての現実なのである。世界をまたに駆け自由に生きるのではなくたまの旅行を楽しむために今日不自由でつまらない仕事をこなす。マッチポンプと言われようともそうした往復を楽しむほうがいくらか現実的であるように思う。

 

 

 

他にも学校に行ったほうが良い理由はある。それは今のような個人主義社会にあって学校が持つ共同性や同質性が逆に貴重なものになっているということだ。

社会に出れば多くの人にとって共通する場所は失われ、それぞれの場所に点在するようになる。社会的地位もそれぞれに偏在するようになって話題が嚙み合わなくなったり、だんだん違う人間になっていく。それは悲しいことではあるけれど、もともとはみな別の人間でたまたま同じ学校にいただけなのだから当たり前なのだろう。しかしそのように個人がバラバラに散っていく社会の条件下では学校という共通感覚、コモンセンスは貴重になってきている。それを失う機会損失の大きさはたぶん大人になってからでないとわからないように思う。社会という荒野の中で、たまたまそこにいただけの無意味で無目的でただ思い出を共有するだけの学生時代の友人はやはり大切なのである。

現実の人間関係だけでなく、サブカルチャーも学校を前提として作られているものが多く、この点からも学校に行くことは大切だと言えそうだ。多くのアニメや映画では学校を舞台装置として取り上げており、肯定的に描く場合は青春として、否定的に描く場合は不自由で閉鎖的な空間として描かれたりしている。どう描かれているかにせよ、これだけ学園モノのアニメや映画が多いのは人々にとって共通の場所がもはや学校ぐらいしかないからなのだろう。それ以外の場所はすべてニッチなものになり、学校だけが説明不要の前提を有する場所として存在できている。

学校に行っていたというと多くの人にとって当然のことではあるが、それが当たり前ではなくなった時、いまここにあるサブカルチャーを楽しむ素地すらなくなってしまう。

たとえばゆるきゃん・けいおん僕は友達が少ないのような学園もののアニメも、学校に行っていたという経験があるからこそ、そのアニメに共感したりすることができるし、逆に「このアニメにはリアリティーがない」という批判的な見方も可能になる。それにはまず学校が実際にどのような場所だったかという共通前提を経験的に知る必要がある。これだけ面白く豊富なサブカルチャーがある現代で、その批評感覚を失ってしまうことは大変もったいないことであるように思う。そのためにもやはり学校には行ったほうが良いと言えそうだ。

 

 

ゆたぼんは13歳で、学校に戻ったとしても学業に追いつくのは大変だと思うけれど、まだ遅くはないように思う。自由になりたければ不自由を知りに学校に行ったほうが良い。借り物の自由を行使してはいけない。僕から言えるのはそれくらいではある。

統一教会にたいし解散命令を行っても自民党の支持率は戻らない

統一教会の問題ももう4か月近くになっている。そろそろどこに落としどころを持っていくのか自民党ははっきりしてほしい。どうやってソフトランディングするのかを考えているのだと思うけど、解散命令を出しても出さなくても自民党にとっては同じことではないだろうか。

 

今回の事件のことを桜を見る会モリカケと同じレベルで考え、時間が経てば風化するものだと自民党関係者は考えているのかもしれないが、もしそうだとしたら完全に誤解している。

 

モリカケ桜を見る会は確かに問題ではあったが、ミスで言い逃れできる種類のものではあった。モリカケは職員の忖度だったり、桜を見る会は出席者が反社であることを知らなかったという一応の逃げ道はあった。また、公文書の改ざんも大変な問題ではあったが、ミスだったと言い逃れできる類の問題ではあった。それゆえ国民全体としては関心を持つ人と持たない人に分かれていた。

モリカケサクラ」を批判していたのはとりわけリベラル勢力が中心であったため、自民党はリベラルからの批判を躱し続けるだけで問題を無化することに成功してきた。多くの国民がモリカケサクラには関心を持っていなかったので自民党は真正面から付き合う必要はなかったのだろう。桜を見る会の時には反社の定義やシュレッダーの性能など明後日の方向に議論を逸らしていたが、そのようにしてメディア・野党・リベラルが疲れるのを単に待てば良かった。

しかしそのようにして問題を無化できたのはモリカケ桜を見る会が国民的な議論になっていなかっただけなのが大きな要因であった。今般の統一教会の問題では、多くの国民が「自民党は説明責任を果たすべきで統一教会には解散命令を出すべき」と答えているが、そのような状況でモリカケの時と同じ言い逃れムーブをし続ければ、むしろ自民党にとって致命傷になりかねない。実際、支持率も暴落しており、媒体によっては30%を切っているものもある。

 

 

焦点となるのが「なぜモリカケに関心を持たなかった国民の多くが統一教会の問題には関心を持っているのか」であるが、それはひとえに統一教会の問題は自民党の本質を露呈してしまったからなのだろう。

 

上述した通り、モリカケサクラの時にはミスや過誤があったとしても自民党は一応の言い逃れができていた。それがどれだけ大きなミスであろうとミスはミスであり、自民党の本質を露呈する材料としては不十分だった。もちろん当時の野党はそのミスが故意であったかどうかを調べるためにシュレッダーの性能などを調査していたりしたが、結局のところそれは証明されず黒に近いグレーのまま忘れられていったのがモリカケサクラの結末であった。しかしながら統一教会の問題では、誰もがわかる形で自民党統一教会の関係が明らかになっており、すでに言い逃れできる状態ではなくなっている。

 

30年近く前に統一教会のフロント団体である原理研究会が学生を中心に勧誘に励み洗脳商法や合同結婚式などを行い問題になっていたことは、高齢男性が多く占める自民党の国会議員であれば知っていて当然のことで、その歴史的背景を考えた時、現在の統一教会と付き合いがある議員は善悪を判断する能力に乏しいと国民に捉えられても不思議ではない。それはミスで言い逃れできるものではないため、議員としての「質」に直結する点でモリカケの時とは問題のフェーズが異なっている。

 

ものすごく簡単に言えば「知らなかったでは済まされない」のである。

 

すこし前に書いた記事だが

無神の人と箇条書きの善悪 - メロンダウト

ある種の「列挙された善悪」にたいしては僕たちは敏感に反応し、それを批判することができる。たとえば女性差別的な発言、LGBTにたいするアウティング、ハラスメント、あおり運転など社会のホワイトボードに箇条書きされたものであれば極めて迅速にその善悪を判断してみせたりする。今回の件から比べればどうでも良い発言だった森元首相の女性蔑視発言も即座に炎上し退場させられる事態となっていた。しかし今回の岸防衛大臣の発言をもってしても辞職することにはならないだろう。自民党の議員が統一教会と関係していたとしても「事前に箇条書きされていた善悪判断」に従う限り、ただちに問題だと判断しえないからである。

 

しかしながら当然、このようなステレオタイプの善悪判断に頼り切ってしまうと箇条書きされていない悪にたいしてはいとも簡単にその侵入を許してしまう。

 

思い返してみれば自民党はある種の「リアル」の上に立っていた。政権担当能力を持っている唯一の政党や保守本流のような形で、とにかく現実的というのが自民党を支える思想的な基盤だった。それにたいしリベラルは空想的で非現実的な政策を出している勢力という構図が、嘘か真かはともかく長いこと続いてきた政治風景であった。

しかしその自民党のリアルがこの程度のリアルだったのか、というのを統一教会問題により暴露されてしまった。自民党におけるリアルとは、上記記事に書いたような風見鶏的リアルのことであり、それはよく言えば清濁併せ呑むとも言えるが、しかし悪く言えば善悪を判断する気がそもそもないとも言えてしまう。

 

そのような態度は統一教会の問題をどうするのか決めあぐねていることからも如実に表れている。統一教会と関係していた議員はどう責任を取るのか、または取らないのかを明言せず、玉虫色の現実に決定や責任を埋め込んでしまおうとしているのだ。あの時はあれが現実だった、今はこれが現実だという形でとにかく現実だけを全面に押し出すことで現実『的』に振る舞いはするけれど、何が現実なのかを明言することはない。

選挙戦では統一教会と連携することが現実「的」であり、安部元総理が殺害されれば統一教会とは距離を取ることが次の現実だという形で現実を無限遡及的にエクスキューズし続けることでもはや何が現実なのかを選択することができなくなっているように見える。

 

無論、このような自民党の体質はなにも今に始まったことではない。なにか問題が起きたら国民の忘却に依存する形で問題を風化させてきたのはモリカケサクラの時から変わっていない。

桜を見る会なんかみんなどうせ忘れる - メロンダウト

しかしモリカケの時に見られたような論点逸らしは、自民党にも一握の理路があったからこそ可能だったことで、多くの自民党議員が統一教会と関係していたという事実がすでにある以上、言い逃れできる理路はもうなくなっている。メディア上でも統一教会問題で論点そらしをしている人物はほとんどいなく、僕が知っている限り三浦瑠璃さんだけが今でも論点逸らしを行っている(三浦さんはもともとけっこう好きで僕は好意的に見てるほうだと思うけれど、統一教会に関してはさすがに無理筋の話が多いように思う)

 

いずれにせよモリカケサクラの時とは違い自民党の体質がもろに露呈してしまったのが一連の統一教会問題だと言える。

反社に近い集団と関係していても「箇条書き」されていなかったので選挙協力していたというのはようするに何も考えていなかったという、ただそれだけのことではあると思うけれど、今までその自民党のリアルはあまり問題にはなってこなかった。

しかしこの現実だけを肯定する政党に政治を任せていたら危ないのではないかということに多くの人が気付き支持率が急落する事態となっている。

それは過去問題となったモリカケサクラとは比にならないほど自民党の地金を曝す事態になっているし、その「現実」を国民が知ってしまった以上、自民党の支持率はそう簡単に戻るものではないように思われる。