メロンダウト

メロンについて考えるよ

虐待の構造めいた時代論

ある時代に求められていた態度はある時代には糾弾されうる。この記事を見て自分の父親のことを思い出した。

yuhka-uno.hatenablog.com

父も母も団塊の世代ど真ん中で社会的にはモデルケースのような家庭だと言っていいと思う。父は終身雇用のサラリーマン、母は僕がちいさいころは専業主婦で手がかからなくなるとたまにパートに出ていた。

大人になって親の弱さに気づくことはよくある話だ。自分の父も例外ではなかった。精神的虐待と言えばそうだったのかもしれない。中学校から帰宅したら父が一人で勝手に怒りだしたのかPS2を庭に捨てられていたこともあった。また、理由も覚えていないような理由で冬に家の前に2時間立たされたこともあった。父はそういう人だった。文字にすれば虐待と読まれるかもしれないが僕はそれでも父は父として尊敬していたししている。どうということはない。父はただそういう権威、男性性が重要な時代に生きてきてそういう権威が男性にとって善だと思っていたのだと思う。しかしそんなことがどうだというのだろうか。それはただ父のささいな一側面に過ぎない。そんな父の不完全さを埋めるほどには父は僕にとってどうしようもなく父だった。

 

よく思うことがある。人格は何かから要請された性質だと。自分の父に関して言えば昭和的な家父長制が父の人格を要請していたのかもしれない。子供が親にたいして従順になり、すべてをやりすごすようななるのもまた要請された手段としての人格であるかもしれない。

恋愛で言えば付き合っている人にふさわしい人間になろうという他律的な意識もまた要請されたものだ。基本的に人格は後天的だ。自分らしさという言葉は単にその他律を自律に変換するためのエクスキューズに過ぎないのだと思う。

虐待の件で言えば父が精神的虐待をしていたのだとすればそれにたいして嫌悪する感情は反面教師という点で父に与えられた性格であり、逆に父を尊敬していればそれは教師として与えられる正確になる。

しかしながら時に虐待をするような親だとしても同様に何かから要請された性質を持つ不完全な人間だという視点があって然るべきだと、僕は思う。もちろんそれを許すか許せないかは完璧に個人の事情によるところだ。それでも昭和的な価値観に支配され男女の役割を完璧に演じるように求められていた時代が確かにあったのだと思う。その時代に生き、その空気にどうしようもなく準じるしかなかった人達がいた。それが家父長的な父親を「要請」したのだろう。

 

いまほど女性が社会に進出する前には多くの女性は男性と結婚するしかなかった、と同じぐらい選択の余地なく男性は権威を持つしかなかったのかもしれない。いまのようにオタクが普通になる前には男は強くというのが男性にとっての一般的なビジョンだったのかもしれない。男は女をリードし、アニメからは卒業し、社会的な付き合いを完璧にこなし、金を稼ぎ、家を建て、自立し、強くあろうとし、子供を持ち、その子供もまた以上の条件で戦い抜くための強さを教育する。それが虐待というのであればそれはどこからきた虐待なのだろうと思う。個人の弱さと一概に片づけていいものではないと思うのだ。

いまの時代にはセクハラや虐待、体罰など加害的な意味に変換された権威という概念だけどそれは当時を生きていた男性にとってはあるいは善性だった。要請された性質なのだとすれば同情し理解することもできる。

悪が単に悪だったり加害者が完璧に悪人だったり、被害者が完璧に被害者だというケースは極めて稀だ。誰かに影響され誰かの妄想にとりつかれそれが正しいことだと思っていることが誰かにとっては正義に反する行いだったりする。またある時代に要請され強制された性質は自由とは反するものであったりする。それはでもどうしようもなかったんだと思う。いまほど豊かではなく自由も利かない時代があった。時代が変わりそれが認められずともそんな時代にどうしようもなければどうしようもなかったんだと距離を取り理解することは少なくとも可能だと思う。たとえそれが加害という形であっても。