メロンダウト

メロンについて考えるよ

自動車社会について

最近、たてつづけに起きている自動車事故に波及するような形で自動車そのものにたいする嫌疑の声があがっている。

自動車がめちゃくちゃ危険な乗り物であることは事実である。正確に言えば認知機能がまばらな不特定多数が運転すると車は危険な乗り物となる。今のような高齢化社会ではますますその危険性が高くなっている。ABSなど自動車側で制御するようにしても人間が操作する以上ヒューマンエラーによる事故はおき続けてしまう。

だから規制するべきだというのは理にかなっている。自分も車は極力乗らないようにしているので賛同したいのだけれど、自動車が走らない社会というのも現状考えにくい。

 

産業革命以降、すべての生産業の土台になってきたのが自動車を主軸とした流通網だからだ。産業革命により蒸気機関が汽車等にも使われるようになったことから交通革命も同時に起きた。蒸気船や鉄道、製鉄業の進歩によって流通が整備されたことから当時のイギリスGDPが伸び始め経済成長が始まった。

なにかを生産して販売するにはインフラが必要不可欠なものである。インフラがなければ経済もない。経済がなければ利便性もない。今、アマゾンやコンビニなどを使い欲しいものがすぐ手に入る状況は産業を発達させインフラを整備して経済成長した結果、獲得した豊かさである。平成のことを失われた30年という言葉で言う人もいるがこれだけの豊かさをまだ持っていることに僕達は感謝すべきである。その豊かさを下支えしているインフラの主軸となったのが自動車の存在である。10トントラックやトレーラーが走らなければ経済は根底から成立しない。

 

そういう利便性を追求して次々に技術を発達させる過度な文明が危険だというのはもうずいぶん前から語られてきたことだ。昨年、自死した西部邁さんが特にそういうことをずっと言っていた。文明は不可逆で人々は既得権益を手放すことはできないから文明そのものにたいして注視しなければならないと。

既得権益というと政治家や官僚、財界人を揶揄する言葉として使うけれど僕達が当たり前のようにコンビニに行くのもある種の権益である。便益を当然のように使う権利があると無自覚にみな信じている。コンビニにいきお金を払えば物が買えるということは自明のことではない。資本主義社会においてすべての人間が手にしている権利である。

 

たしかに車の運転は難しい。しかしヒューマンエラーが危険であるというのであれば車によって僕達が与えられている便益も程度問題として同時に手放さなければいけないだろう。

「自分は自動車に反対で乗らないから過失事故も起こさない。だから自動車がばんばん走っている現状には文句を言う。しかしコンビニやアマゾンを使い事実上外注するのはやめない」というのは筋が通らない。自動車の存在にたいして反対するのであれば文明化した結果獲得した利便性を拒否し閉じられた経済圏で地産地消して生活する以外に他はない。

 

車のUIに関しては確かに改善の余地があると思うが車の安全性能があがっていることは間違いない。飲酒運転の罰則強化、若者の車離れなどによる効果もあるだろうがそれ以前から交通事故の発生件数、死者数ともに減り続けている。

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https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu

 

プリウスのUIに関しても確かに直感的にわかりにくい。シフトレバーがどこにはいっているか視認しにくいので改善の余地はあるだろうがそれでも全体として見ればここ80年で今は交通事故による死者数が最も少ない。

犯罪件数に即して言えば悪いニュースばかり見て治安が良くないと印象的に判断するのが間違っているのと同じようなものだ。社会がここまで高齢化したにも関わらず自動車による事故は過去最低を更新している。

 

それでも事故は起きると言ってしまえばそれまでであるが上述したように人々が経済から便益を獲得するには自動車が不可欠な存在である。

ならばメリットとデメリットをはかりにかけ功利主義的に考えるしかないだろう。

自動車は年間3532人を殺してでも社会にたいしてメリットがあるのか?に自動車の社会的な問いは集約される。

経済的には自動車がなくなれば経済が破綻するので考えるまでもなく3532人が亡くなってしまっても存在するほうが合理的な選択である。

仮に民主的に多数決で決めるとしても多くの人は自動車があるほうに投票するだろう。なぜなら死ぬのは他人だから。自分の便益を獲得するためにはわずか500円の商品をアマゾンで買うために他人に30km運転させることもためらわない、というかそんなことそもそも考えない。水道から出る水を飲まずたいして違わないミネラルウォーターを配達させるのになんの呵責も感じない。それが正当な取引であると信じて疑わないだろう。

運転のプロであるタクシー運転手などの二種免許保持者でさえ5万kmに一回は事故に遭う。運転のプロは事故に遭わないかというとそんなことはない。子供が突然飛び出してきたり信号無視した車がつっこんできたり車を運転する以上不確定なリスクは0にはならない。

 

車を運転すると死ぬリスクがある。この社会で死ぬリスクがある行動はもう車ぐらいだ。一方で自ら運転しないと死ぬのは他人だ。自ら運転しようともしなくとも経済の利便性を受け取っているなら死なせているのは全員である。

都内に住んでて電車しか乗らず自動車は必要ないから車を批判するというのはさすがに無自覚すぎる。むしろ都内に住むという行為によって獲得する利便性によるほうが田舎で車を運転するよりも事故のリスクをあげている行為だと言える。

 

自動車は生活を営むためにはきってもきれない。それでも事故は起きる。

経済的にも車を規制するのは無理。自分が運転しないからといっても流通している商品を手にしている以上は全員が当事者である。

車は時に人を殺すことがあってさえ今の社会には必要だという結論はもう出ている。

なら事故を減らすしかない。車体の安全性能強化、飲酒運転の罰則強化、道路の整備等をやっていった結果として自動車による事故は過去最低の数字を出している。いまの状態がベストだとは思わないが事故ひとつなくすのにどれだけの労力がかかるのか考えると、道路を舗装している業者さんや違反車両を取り締まる白バイ、ABSなどを開発している自動車会社には感謝すべきであろう。

 

たしかに完璧ではない人間があんなに大きく速く動くものを運転するというのは冷静に考えれば常軌を逸している。僕も本当にそう思う。

しかしやはり車はこの社会に必要である。