千葉大生が中学生を2年間もの間、誘拐したというけっこう衝撃的なニュースが世間を騒がせている。
誘拐事件と聞くとベストセラーになった八日目の蝉を思い出します。
※当エントリーはネタバレを含むので八日目の蝉を見ていない人はこんな個人の見解ではなく小説や映画のほうを見ることをおすすめいたします。
誘拐が重罪だということは間違いない
しかし誘拐された少女が誘拐犯をも憎むのかということはまた別の側面があることを八日目の蝉は教えてくれます。
・八日目の蝉の概要※ネタバレ
物語は不倫から始まる。
結婚して家庭がある男が言葉巧みに不倫相手の女性をいいくるめるよくある話だ。
「奥さんとは別れるからもうちょっと待ってほしい」「もう妻に愛情は感じていないんだ」「将来は一緒になれる」
そう言って関係をつなぎとめる。ありふれているが耐え難い悲劇的な状況から物語はスタートします。
不倫関係を続けているうちに不倫女性との間に子供ができて男は家庭を守るためにおろしてほしいと告げます。今生んだら裁判でも大変なことになるなどそれらしい理由をつけて女性を説得し、結局子供をおろすことになります。
そうこうしているうちに今度は奥さんとの間に子供ができ奥さんのほうは子供を出産します。幸せな生活を送りますが生後4ヶ月で子供をおろした罪悪感と嫉妬により不倫相手の女性が子供を誘拐してしまいます。
誘拐した後も逃亡生活を続けながら4年間もの間、誘拐した子供を育て続けるのです。
しかしそんなことが永遠に続くわけもなく捕まってしまいます。子供は実親に引き渡されるのですが誘拐犯のことを母だと信じてしまっていました。ちょうどカッコウの雛のように。
その後成長するにつれ自分の存在が母に迷惑をかけていることを学び誘拐犯のことを憎まなければいけないという思い込むようになります。
「世界一悪いあの女がうちをめちゃくちゃにしたんだ」という台詞が象徴的ですが
物語はさらに続き誘拐された子供はやがて大人になります。そして自分の過去を思い返し誘拐犯に育てられた場所を巡ることで誘拐犯を忌み嫌っていた憎しみの感情からすこしずつ解放されていくのです。誘拐されたとて自分はあの女からたしかに愛されて育ったんだということに気づくのです。
犯人を愛してもいい自由
八日目の蝉で主題となったのは誘拐された状況はたしかに悲劇ではあるし重罪でもあるのだが犯人を憎むのも愛するのも被害者の自由だということだ。
誘拐犯、犯罪者は憎まなければいけない。そういった世間的に当たり前だとされる憎しみの感情がその後の人生を苦しめることだってある。
そういった誘拐されたりレイプされてもなお犯人を愛してしまうことはストックホルム症候群といわれますがそういった精神分析で型にはめてしまうことこそが被害者をなお頑なにしかねない。
レッテルを貼るなということだ。被害者はこんな気持ちなんだと憐れむのは勝手だ。しかしやさしい同情は異論をはさむ余地がないぶん無敵であるゆえに時にひどく残酷だ。
今回の千葉大生誘拐事件でも中学生は千葉大生のことが仮に好きだったのであればそういった感情も大事にしてほしい・・・というのは語弊がありそうだ。そういった通常考えられないような感情が存在することもまた自由であることを知ってほしい。
憎いのであればそれもまた自由だ。
だから僕は被害者の少女のことを察しない。察するゆえに人はそう考えなければいけないのかと思い込むようになりそれがまた人を地の底に叩き落すのだから。
誘拐を肯定しているわけではない。被害者の思考の自由を語っているにすぎずご両親にたいしてはただただつらかったですねという他はないのだ。
誰がなんと言おうと誘拐は重罪なのだから