メロンダウト

メロンについて考えるよ

無限に増殖する生きづらさ

男性の生きづらさや女性の生きづらさが最近ことさら取り沙汰されている。

宇崎ちゃん関連のフェミニズムとオタク論争やメンズリブを見ていてもどうやら人間は誰しも生きづらいものなのかもしれない。

個人的なことを書くと自分は身長が高くて目が一重なので第一印象で相手に良い印象を持たれることが少ない。一時期、そういう相手の反応を知るのが嫌で人と目を合わせない時期があった。自分が相手を威圧していると瞬間的にわかる時があったからだ。

高身長は身体的には恵まれているとはいえ、相手から柔らかい感情を持たれることは少ない。可愛いと言われる人間が昔からうらやましかった。最初からそういう低いハードルでコミュニケーションを取る人間に比べたら自分はなんと生きづらいかと思ったこともある。しかしまあ肉体的な条件は変えようがないのでずいぶん昔に諦めた。

 

生きづらいと言えばだいたいの人は生きづらい。低身長の男性も高身長の男性もそれぞれ別の生きづらさを抱えている。男性のそれも女性のそれも数ある生きづらさの一つに過ぎない。個別の生きづらさにそれぞれ言及していくのも大事だけれど、生きづらいということが誰にとっても言えるのであれば問題はその問いが残ることをどうするかだと思う。

生きづらいというのは得てして万人にとっての戦慄である。重力であると言ってもいい。与えられた条件で生きていくしかないとはいえ生きづらさは残る。それが戦慄として目の前に現前し、その人に重力を与える。

 

重力そのものを問題にすべきものがある一方で重力そのものをどう取り扱うのか、その方法論について考えたほうが良いものも多々ある。外部の世界が間違っているのであればそこに向かって声を上げること、たとえばフェミニズムなどがそうだがそれはそれで必要なことだ。世界は自然状態そのままであるとき、暴力的、肉体的強弱で簡単に支配関係が成立する。男性のほうが体力があり支配的な立場に立ちやすいは自然な状態だがそこから男女差別をなくすには自然ではない(動物的ではない)契約関係をつくることによって是正することができる。そうして社会は成立してきた。

そうやってあらゆる権利を獲得し、自然な状態から社会を正しい状態に寄せていく行為は間違いなく善なるものである。 

 

一方でそうではない生きづらさを取り扱うときがある。自分のようないわゆる単なる条件であるとき、その理由を外部に見つけようとすることはおそらく間違っている。仮に僕が僕の生きづらさを外部に求めようとすればこのような体に産んだ親が悪いなどというとんでもない考えを持つかもしれない。そうなるととても厄介である。

なんにしろ生きづらさを僕たちが持つとき、僕は僕の生きづらさに何か理由があるはずだと思い込んでしまう思考の癖が確かにある。答えを見つけようとする。しかしえてして本当に問題なのは答えではなく問いそのものが目の前に転がっているその戦慄のほうである。こういう書き方は自己啓発的で嫌いなのだが僕達はその戦慄に怯えてはならない。怯え、恐怖に負ければ簡単に誰かが提示した答えに飛びついてしまう。それはカルトであったりあるいはインターネット上だとラディフェミやネトウヨなどがそれに当たるかもしれない。自分自身が問いを持つ時、その答えを誰かが持っていると思うのは妄想に近い。

僕たちはみな生きづらい。誰も彼も彼女も。僕たちがそう考える時、そうではない生きづらいのは「世界が悪い」と簡単にバーンと答える人達が資本主義や承認欲求に駆動されて出てくる。さらに「世界が悪い」が正しい言論である時もあるから厄介だ。世界が悪い時と世界が悪いかもしれないがわからない時がある。わからないがこの生きづらさという問いだけは残っているということを見つめるほうがおそらく重要である。

 

これだけ情報化、インフォーマットされた世界ではすべて形式的な答えに設定されていく力が働いていることは間違いない。フェミニズムも、ポリティカルコレクトネスも、METOOも、環境問題も何もかも答えを出そうとし人々を情報化し形式化する。

しかしそれは一つの解に過ぎないと思い、問いそのものを残すことが肝要ではないか。

おそらくはメロンにすら問いは残る。夕張メロンだけがメロンではない。マスクメロンアンデスメロンもある。さらにメロンは果物ですらない。野菜である。しかしメロンを食べた時その味は間違いなく果物で果物と思ってもいいはずである。

メロンは分類的には野菜だが食べた感じは果物なので果物か?

そういう問いだけが目の前に残る。果物だと断定してもいけない。それは植物学に対する冒涜である。野菜だと断定するのも過去食べたメロンの味がそれを許さない。

問いそのままが以前として残り続ける。そして僕はそれでいいと・・・いや正しいとすら思っている。