批判なき政治ってなんかの冗談かただの言い間違いととらえていたんだけど、最近のコロナ騒動ですら支持率が高止まりしてるの見ると冗談ではなかったんだなと思えてきた。
このツイッターにたいしてブコメで批判されまくってて実際、ものすごい気持ち悪いツイートなんだけどこの「ノリ」で政治をやっているってのが実際のところなんじゃないだろうか。まさかそんなはずはないってレベルまで国民は物を考えなくなっている。それに戦慄を覚えている。
はてなにいると反政権のコメントばかり見るけれど実際の母数としてはてなはほとんどカウントするに値しない程の少数の村でしかない。実際のところ政治にたいして影響力を持っているのはYoutubeだと思うようになってきた。もちろんツイッターやヤフコメ、5ちゃんのニュー速などもあるけれど規模としてははてなとそこまで変わらない。Youtubeほどのユーザー数を持っているわけではない。政治的なニュースへの政治的な言及数で言えばそれはツイッターが一番多いだろうけれど今問題となっているのは政治的な言説とは別のところで強制されるような政治的な作法ではないだろうか。
Youtubeも直接的にメディアスクラムを組んで自民党を支持しているわけではない。そうではない無意識の部分、つまり政治とは全然関係ないたとえばアイドルとかの動画につけるべきコメントと同じレベルで投票するべき政党を選んでいる(もしくは選んでいない)のではないか。そう考えれば今のような悲惨な政権を支持するような状況にも説明がつく。
公文書は改竄するし具体策は出さず国会では答弁をしないで実質GDPはさがりつづけて利権団体の顔色を伺うお仲間政治であげくの果てにはお肉券だとか何をどう考えてもこれだけ「不適格」な政権はかつてないとまで言っていいだろう。
もはやどう考えても自民党が「正しい」とは思わないはずなのに今これだけ自民党が支持されているのは「正しくない」と言えない世界だからだと言わざるを得ない。それが批判なき政治という冗談めいた真実があらわすことだろう。
それを醸成しているのはYoutube作法もといネット作法とも言うべき礼儀正しさでありそれがここまで馬鹿な国民をつくっているのではないか。そう思うようになってきた。
なんの動画でもかまわないがYoutubeの動画に批判的なコメントをつけると削除されるかされなくても「なんでわざわざこの動画見てるの?」といった返信が返されることがある。嫌なら見なければいいじゃんと仲間内で固まるうちにすべての動画が批判なき動画となっていくうちにそれが先鋭化して正しさとは離れお仲間で仲良くすることだけが目的の集団になっていく。そのYoutube民主主義の最大のものが他ならぬ自民党である。正しさの議論をすべて棚にあげつづけるので何をしても支持率が下がらない。Youtuberのヒカルもvaluであれだけのことをやらかしたのにお仲間原理でいつのまにか元に戻っているように自民党が何をやらかしても元に戻る。
昔、このブログにも何度か書いたと思ったけれど、政治的な言説が実際の政治をつくるかというと100%そうではない。政治的ではないことが人々の無意識をつくりその無意識が政治をつくる部分が大きい。直接的に政治のことに言及してこれが悪いと報道したとしてそれが事実であっても「空気」には勝てない。
ネットリンチなどがはじまってからカウンター的に「罪を許す」ことが正しいことだと言われるようになってきたが、それは裏を返すと罪を許すが正しいのであればもう罪が罪として成立しなくなり何をしても罪ではない状況になる。
つまりネットにおいては匿名空間における集団リンチが問題だと数年前まではされてきたがそれが逆に振り切れたのが今の状態なのだろう。
もうネットリンチが問題ではないと言う人はほとんどいない。ネットリンチはいけない。それはそうだ。しかしだからといってすべてを許すことが正しいのだろうか?
もちろん不倫などのちょっとした炎上程度なら許すほうが正しい。しかしそれとは別のフェーズで考えなければいけないことがある。それが政治である。許すことを至上とし、批判することが許されなくなった時に政治は最悪の方向へ向かうだろう。
その最悪の無意識を断ち切らない限りもはや森友や桜を見る会などの個別の問題は問題とならない。政治的な問題も「ちょっとした炎上」で許すのが正しいとなっているのだから。なんでも許しちゃう。そんな状況で民主主義が成り立つわけがない。
その意味で批判するの駄目だよねとあまりにも素朴にツイートした今井絵理子氏は最も大衆的でありYoutube民主主義を体現する政治家なのかもしれない。もちろん最悪のという意味であるが・・・